コラム
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労務に関するご相談は社労士にお任せください!
当グループの一つに社会保険労務士業務を行う、けやきパートナーズ社会保険労務士法人があります。 昨年の税理士法人の名称変更に合わせて、社労士事務所も法人化し、名称もそろえて新たに出発しました。 こちらのコラムを読まれている皆さんは社会保険労務士がどのような業務を行っているかご存じでしょうか? 「社会保険労務士」は名称が長くて呼びにくいため、通常は「社労士」と呼ばれています。 数年前までは他の士業と比較すると、知名度はあまり高くないというイメージでしたが、 2019年から始まった働き方改革や、コロナ禍での雇用調整助成金等の需要拡大から、 だんだんと注目をされるようになりました。 社労士の主な業務としては、 ①労働社会保険に関する申請書類の作成、提出代行 ②労働社会保険に関する帳簿書類(賃金台帳等)の作成 ③労務管理についての相談指導業務 などがあります。 この中でも①②は社労士の独占業務となっているため、他の士業の方には行うことが出来ません。 当事務所では労働社会保険の新規適用から、従業員の入退社、労災の申請、助成金の申請等、 会社に関わる手続きについて一通り承っております。 また、最近は労務関連の法改正も多く、労働時間の管理や有給休暇の付与取得の管理、 従業員の就業や、退職に関して発生する労務トラブルのご相談も多くなってきております。 「労働基準監督署の調査が入り、是正報告をしなければならないが具体的な記載の方法が分からない」 「従業員から有給休暇のことについて質問されたが、自社の場合はどうなるのか確認したい」 などのご相談も承っております。 労務に関する専門家として、皆様の悩みを解決できるようお手伝いさせていただきたいと思っておりますので、 お気軽にご相談ください。 当グループから毎月関与先のお客様に向けて発行している事務所通信には「けやき労務通信」を同封しております。 労務や社会保険に関する最新情報を掲載しておりますので、そちらもお読みいただければ幸いです。 社会保険労務士業務担当 八木 麻衣子
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わが大学生時代を振り返って①アルバイト編
このコラム読者は、大学生もいるのではないかということも想定して、私の大学時代のことを総括したいと思いました。また、時折しも、我が息子が大学前後の世代になっていて、自分自身の大学時代を振り返ってみるいい機会だろうなあと。長男は、この4月より社会人になり巣立っていきました。二男は、大学2年生。学生時代真っ只中です。三男は、高校に入学したばかりではありますが、すでに進学先希望調査という事で、志望大学を記入させられています。大学に関する知識が、自身の体験を通じて、さらに親として子育てを通して体験してきたので、より良い選択肢を三男に提供できるのではないかと思っています。 すでに、当事務所に入ってくる男子正社員は、全員が高校卒業後に大学に入学して社会人となっている経歴の者しかいなくなりました。大学卒は今や当たり前です。大学4年間で結局は何を体験して、何を得られたのかが重要な事なのではないかと思います。 私が、中央大学に入学した理由は、公認会計士を目指してということでありました。ところが、新入生歓迎イベントで出会ったグリークラブ(男声合唱部)に魅了されてしまい、公認会計士への最短ルートは遠のきました。 4年間がグリークラブにかなりどっぷりだったと思います。とは言ってもアルバイトもあり、ゼミで必死に学習したこともありと今から思い出すと恋愛は除いて、さまざまな事を経験できた4年間であったなあと懐かしくもあります。 大学4年間は、昭和から平成に変わる時、『バブル期』と言われた時でした。今との大きな違いは、スマホがないことです。あとは、小さな差でしょう。連絡を取り合うのに、携帯電話は全く一般的ではなかったということです。(一部ありましたが、普及しているのはせいぜいポケットベル程度でした)今、大学生活が送れたら、さぞかし楽しかったかもというのはあります。今となっては、携帯電話とかスマホのない生活など考えられませんよね。 しかし、スマホは、なかったらなかったで、当時はワクワクだったのです。まだ、電話を持つのに電話加入権として7万円ほどを支払う時代でしたので、電話を共用することもあった時代です。 初めての一人暮らしは、八王子市にある寮から始まりました。個室ではあるものの、風呂トイレ洗面が共用、洗濯機も共用で。礼儀に非常に厳しく、先輩が威張っていて、新人歓迎でビールなどを無理に飲ませるようなことが行われて、ほとんど飲めない私には拷問としか言いようがなかったです。最初の大学生活に慣れるのに寮は良かったのですし、孤独感を紛らすのにはよかったのですが、制約の多い場所であることから3ヶ月ほどで退寮してしまいました。結局、新入生の退寮第一号であったと思います。寮生活以外で、楽しみを見つけていったからであると思います。 4月に、グリークラブに入り、下旬には新歓合宿があって、楽しく盛り上げてくれる上級生たちに居心地の良さを感じていました。このグリークラブでの活動については、別に項を設けて掲載します。また、誰でもできる肉体系の作業を一度きりアルバイト体験しました。その後、寮の先輩にホテルのフロントでの仕事を紹介してもらい就業することにしました。これは誤りの始まりだったかもしれません。週に3度、午後9時から午前8時までの仕事。途中3時間ほどの仮眠が与えられたものの、やはり翌日には影響してしまいます。眠くてかなり午前の授業を欠席してしまいました。確かにバイト代かなり入ってきました。さらに、社食も2食いただける時がありましたし、オープンしたばかりの綺麗な職場でしたし。それで、新しいオーディオやCDを購入して物欲を満たしていましたが、その反面あまり勉強ができず、肝心の単位の取得にも影響してしまいました。 勉強というと、日商簿記検定二級を11月に合格できましたが、わずか1ヶ月程度の学習期間で取得できたのは自信になりました。独学ではありませんので、効率よく学習できたということです。在学期間中に取得できた資格というと、これだけで、親の期待に背いてきた大学時代だったのかもしれません。 大学2年時は、悔い改めて、しっかりと単位取れるように、バイト時間を減らして、学業と両立がしやすい家庭教師のアルバイトをするようになりました。ただし決して効率が良くないアルバイトです。1回2時間まで程度。往復に2時間もかかる場所に出向いていました。さほど近所に家庭教師をお願いされるところはないというのもあるでしょうし、もっと優秀な大学など多くありますし、地方出身者というのも嫌がられる原因かもしれません。ほぼ中学生男子ばかりでしたけれど、教えること自体は楽しいと思いました。実質、優秀なレベルの生徒は、塾に行くので、指導レベルは低いのです。いかに理解させ、解けるようにしていくか、時間が足りないと思うことが多かったです。 アルバイトといえば、定番は飲食店系ですが、「リンガーハット」と「デニーズ」ではそれなりに長期間働いていました。いずれも仕事内容というよりも、人間関係というところで、学んだことが多かったような気がします。1年に満たない短期間働いただけなのに、夜勤明けに送別会のようなことをやって頂いたリンガーハット立川日野橋店での思い出は染みついています。一緒に働いていたアルバイト、店長、副店長など20才代前半ばかりでしたが、今はどうしているだろうなあと思います。 『学生諸君へのアドバイス』 やはり学生時代は勉強しないとダメだ。アルバイトにかける時間は、週に10時間程度までにとどめておかないと、しっかりと勉強できないのではないかと思える。『学業第一』の学生生活を送るように努めよう。(比較的、恵まれた家庭環境であるならばというのが前提。家庭の都合上、働きながら学生しないと経済的に困難な方もおられるだろう) 今思うと、アルバイトは、単に物欲を満たすためにやるようなものであり、若き頃の物欲など際限なく広がってしまうものであるから、それを一定限度に抑制することが必要だと思う。いわゆる「足るを知る」ということである。 「少年老いやすく学なり難し」という孔子の言葉は、至言である。学生時代こそ、いろんな体験ができるといっても時は有限だ。バランスよく時間を使ってもらいたい。本格的に働くのは、大学を卒業した社会人になってからで十分ではないか。学生時代でしかなし得ないことに時間を費やすべきと思う。そう、学生時代こそできるとは、学業が中心でなければならないし、その他だと一生付き合える友達、ライバルに出会う場ではないだろうか。
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50周年行事「50周年の集い」を実施
50年続いてきたひとつの足跡を「記す」催しは、開きたいものだとずっと考えていました。 特にお客様、関係者の招待は行わず、完全に社内行事として、令和4年6月3日に50周年記念行事を開催しました。 「コロナ禍」「スタッフの思い」「私の体」のことなど様々な点から考えたら、今回のやり方はベストだったのではないかなあと思いました。 公的組織である税理士会の支部の50周年をまねてという発想は違ったのかもしれないなあと。一昔前の華やかな時代とは違いますし。 今回の行事は、創業者の創業当時の思い、事務所の歴史を写真を交えて語ってもらうことにより、「創業の原点」「事務所のあゆみ」をスタッフに知っていただき、 事務所の歴史を胸に刻んでいただきながら、次の50年を迎える「節目の」行事としていく位置づけとしました。 事務所の発展を考えると、目につくのは、まずは「事務所」の大きさなのではないでしょうか。 この事務所の歴史で、最も大きく変わったというのが目に見えるのは、揖斐川町の中心商店街の中にあった小さな事務所を現在地へと新築移転した時ではないかと思います。昭和47年2月に自宅の1階の小さなスペースで開業した国枝隆税理士事務所から私たち現在の「けやきパートナーズ」の歴史は始まります。そこから移転を決めるまで7年程度。まだ父は40歳前後。動き回るエネルギーに満ち溢れていたのでしょう。昭和55年に新事務所が建設され、移転しました。当時白亜のモダンな鉄筋コンクリート造りの一部3階建て建物は、周囲からは大変よく目につくもので、小学生だった私は大変誇らしく思ったものです。 その現在の事務所の位置は、新しい揖斐川町役場と同じ通りに存在し、近郊には、揖斐川町商工会、県総合庁舎、ハローワーク、警察署、地域交流センターはなもも、町立図書館、保健センター、建設防災センターなど公共機関が多く存在する町の中心地域として揖斐川町では最も「利便性の高い地域の一つ」であり、前の町長の話によれば、「計画的に住宅を誘導する地域」と位置付けている地域へと変貌していきました。さらに、近年では町の買い物の中心地もわが事務所の西側地域へと移転してきました。人口減に悩む揖斐川町の中では、比較的人の動きがある活力を感じる地域ではないかと思えます。昭和55年事務所移転した時は4人でやっていた事務所が、その昭和から平成になった15年後には15名近くの事務所へと成長しました。 私が事務所に入ってから20年。事務所の拡大成長速度は、世間と同じように鈍くなってきています。ところが、事務所のスタッフの写真を見ると、私の入社時にいたのは、創業者と私を含めて5人。陣容は大きく変化したのだとこの日のイベントでは感じてもらえたのではないでしょうか。技術、伝統の「伝承」も事務所の大きな課題であります。 創業者の話の次に、私は「時代の潮流、技術革新」「税理士業務の変化」「代表として取り組んだこと」の3本柱で話をし、これから発展していくための課題をあげました。 まずは、根本に立ち返り、「顧客目線の事務所運営」。まさしくお客様の永続的なパートナーとして存続できるように私どもけやきパートナーズは成長していかねばならないと再度気持ちを引き締めたイベントになりました。 今回は、谷汲の100年続く老舗企業さんで祝賀式典と懇親会を開催しました。 2年前新卒で入ったスタッフが初めて経験、参加する全社での酒が入った懇親会ということで、楽しんでもらえたことでしょう。 コロナの影響で一度延期した記念行事が、無事6月3日開催出来て、感謝でした。さらに、コロナおさまって、平穏で活気ある生活が戻ってくることを祈念します。
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事務所50年を迎えて 昭和ノスタルジー
事務所創立50年を迎え、過去を振り返ってみています。 懐かしのあのころ、今とは違う風情があのころにはありました。 それをわが子たちは、当然ながら体験できないのが残念なことです。 私が生まれた昭和43年。というと、意外に先の悲惨な大戦から「23年」しか経っていないのですね。 まだ「平成年間」の方が長いのですね。かといって、私は戦争を体験している年でもなく、 身近にいた祖母より大垣が空襲で燃えているのを見たよという話を聞いたのを覚えているくらいです。 私の子供のころ印象的であった建物で今残っていない建物というと、 揖斐小学校校舎、揖斐小学校講堂、揖斐小学校南に存在した図書館。おおむね、小学校周りに懐かしのものはありました。 揖斐小学校校舎は、以前は「北舎、南舎」と2棟になっていましたが、 現在は少子化、近隣の人口減、流出の影響を受けて1棟に集約されてしまっています。 私が低学年の時に、北舎が木造建築から鉄筋コンクリート3階建てになりました。当時は、新しくなって、「独特の新しいにおい」に感激したものです。 講堂は、床に畳を敷いて柔道をしたなあ、その畳が積んである上で遊んだり、ステージ裏を走り回ったりしたなあとか、時に選挙の投票所になっていて、 親についていったこともあったかなあとか、小学校は自宅から徒歩2分の至近距離にありました。 三輪神社とともに身近な遊び場であったなあと思います。 そして、隣接していた図書館と歴史資料館。木造で、独特の雰囲気がありました。あまり本を一生懸命読んだ記憶がなく、2階にあった歴史的遺産に興味を 惹かれていたように思い出します。残念ながら、この図書館も今はなく、小学校の運動場になっています。 小学校の近隣には、今はほとんどなくなっているだろう「珠算塾」がありました。細い通路のやや奥まったところに、木造の塾の校舎。 冷房もない時代、蒸し暑い中、できないと悩みつつ通った記憶、その前後でいろんな遊びをした記憶が。先生も、「昭和風」でした。今だと問題になりそうなことを当時はやってました。木の四角い棒で頭をたたくんです、もちろん思い切りではないですけれど。にもかかわらず、数多くの塾生がいたということは、その当時はそんな「体罰」は気にされなかったのですね。さらに、懐かしの駄菓子屋。小学校の時は、自宅より楽に歩ける範囲に3軒あったのですが、いずれもなくなってしまいました。 「タイムマシーン」(ドラえもんの秘密兵器、これも昭和的かな)があったならば、昭和50年に行きたいですね。 自宅には、「はえとり」が食卓にあり、汲み取り式の便所であったり、食品添加物の多い食であったりと今の快適な生活に慣れた身にはと嫌になるから、1泊2日で帰ってきたくなると思いますけどね。 昭和の時代は、古いものをどんどん捨てる、壊す時代であったようにも思えるのです。それが、今では使えるものは残そう、できるだけ捨てないにシフトしました。 昭和の時代、懐かしいとは思うのですが、令和の現在の方がはるかに便利になり、快適になり、物が十分に生きわたっている良い時代に思えます。技術革新が私たちの生活を仕事の質を向上させてきていると思います。そのような日々の技術進歩に感謝をしながら生活していきたいものですね。
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三谷幸喜の大河ドラマが面白い
経営者たる者は、有名な歴史上の人物から学べということがよく言われています。昨年の大河では江戸末期から昭和初期までを生きた渋沢栄一(1840 ~1931)が主人公でした。彼の教えを記した「論語と算盤」も普遍的な教訓を数多く盛り込んだ名著であると思います。今年の大河ドラマは、初めて本格武家政権を樹立した源頼朝の義理の弟、北条義時が主人公であります。私は、北条義時って誰というくらい、鎌倉時代に詳しくありません。そして私は特別に大河ドラマが好きだというわけではありません。大河で全て観たのは、毛利元就だけ。しかし現在進行中の大河ドラマは、脚本を三谷幸喜さんが作っているということもあって最高に面白いなあ、退屈しないなあと思って観ています。 今年の大河ドラマのまず表題ですが、「鎌倉殿の13人」という表題であります。当然ながら鎌倉殿=源頼朝が登場するのは間違いないですよね。13人って誰なのかという疑問が湧いてきます。歴史の教科書を紐解きますと、当時、中学で学んだ時にしっくり来なかったのが、源頼朝が創始している鎌倉幕府であるのに、いつの間にやら執権である北条ばかりに時の権力者が変わっていくということでした。まずは、頼朝の重臣に北条氏が挙げられるのは間違いないとところなのであろうと容易に想像はつきます。頼朝の妻政子(御台所)が北条家出身であり、政子の父親である時政、政子の弟である義時が大いに登場してきます。そして、北条義時が主人公の物語なのです。義時役に映画「罪の声」での大熱演が光った小栗旬さんが演じていますね。そして、その主君である鎌倉殿に大泉洋。大泉の演技はすっとぼけたようでもあり、コミカルで、頼朝はこんなにわがままであったのかというくらいの聞かん坊ぶりを発揮していたのと同時に、回が進むにつれて、策士、先駆者、カリスマ的指導者の代名詞が思い浮かぶほどのヒーローぶりも浮かぶ上がってきます。時には恨まれても冷徹になれる人物として描かれていきす。 そして、それら男性陣を取り囲む女性陣たちも印象に残ります。特に小池栄子演じる政子。男性に従順というわけでなく、時に大いに不満をぶつけて夫をイライラさせ、本気に怒らせたりします。自己主張の強い女性、まさに女帝という言葉がしっくりします。頼朝の弟の義経に菅田将暉が配されていますが、とても破天荒で型破りな振る舞いをしています。戦は抜群にうまいが、政は上手くない人物であったのでしょうか。平家追討の立役者であるのに、頼朝との仲が悪くなり、討伐の対象とされてしまうあたりを見ると不器用な生き方をしてきたのだなあとも思えます。を数多く人物が登場するが、それぞれが特徴的でキャラクターが極めて引き立っています。 生々しい合戦シーンは少なく、武士の主従関係、天皇と武士との関係性、そして女性の嫉妬、夫婦間の一悶着など、現代社会にも通じるシーンが目白押しなのです。緊迫感のある中で、コミカルな仕草やセリフが混ざるのが三谷流なのでしょう。お茶目でかわいいと感じるのも人気の秘密だと思います。 鎌倉殿の13人の英語表題が、『The 13 Lords of the Shogun』ですよね。鎌倉など出てこないのです。「将軍の13人のLords」なのですよね。きちんとLordsと言い切っていますね。和訳は主人(あるじ)なのであろうけど、’御家人’を指すのでありましょう。邦題をそのままに直訳していないところがまた興味深いのです。そして邦題は、「御家人」と言ってしまわないところに興味を惹かれる。大泉洋、小栗旬、菅田将暉の実力派俳優に、西田敏行らの大ベテランも加わる豪華さに三谷流のコミカルさ、洒落たテンポ感。小栗旬演じる義時が、頼朝に添い続けてどのように変貌していくのか、政子の女帝ぶりはいかに描かれるのか。頼朝はどのように死んでいったのか謎が多いようです。その頼朝の死について、三谷はどのように描いていくのか今から興味が尽きません。私が三谷幸喜を知ったきっかけは、映画『ラヂオの時間』でありました。あまりに面白くて見事にハマったことを思い出します。 歴史は繰り返すといわれ、歴史上起こったことは2度3度と繰り返されています。昨今の新型コロナウィルスによる「感染症」も歴史上は何度も起きたことでしょう。感染症ということでは、大河は、真実ばかりを映像にしたものではなく、創作も混じっているのでしょう。しかしながら、楽しみながら学ぶ歴史上の有名人ということでは、漫画で学べる歴史同様に、素晴らしい教材ではないでしょうか。脚本の三谷さんは、歴史を面白く楽しく見せてくれる天才だなあと感じます。映画であると『本能寺ホテル』『清須会議』『ステキな金縛り(舞台は、現代ですが歴史的要素があります)』などいずれも興味深く、コミカルさもあり、くすっと笑えます。一度お試しあれ。
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パワハラについて思うこと
パワハラ防止が最近声高に叫ばれていますけれど、私から言わせるとどうしてこうも「パワハラ」と叫ばれないといけない時代になったかというのを疑問に思います。 私たち税理士は、常に経営者様と向き合っていますけれど、従業員との関係に悩む経営者は多いように見受けられます。 「従業員から残業代不払いでいきなり訴えられた」 「回収した代金を横領されてしまった」 「ハローワークに求人票を出しているが、まったく応募がない」 「従業員がけがを負ってしまった。なんとかしてあげたい」 ということを聞かされる一方で、 「うちの社員は、よく働いてくれる。そのおかげでずっとわが社は成長している。それに報いなければならない」 と話していただける社長もおられます。というように、法律に沿って事業運営はしないといけませんが、どちらかというと従業員思いの社長が大半なのではないですか。 そして残念ながら従業員側が、社長の思いを理解できないケースが多いように思います。 愛情ある指導が、いつしかパワハラになっている、その従業員を思って言ったことがかえってパワハラととらえられる。なんとも寂しい限りです。 私も以前は、従業員という立場がありました。その当時の上司の厳しい口調や態度に腹が立ちましたが、今思うと厳しく叱責されることで、気持ちが引き締まった、身になったようにも思えます。かえって、20数年経った今となっては、当時は懐かしくもあり、’鬼’になって叱ってくれた上司には恨みもなく感謝しかありません。 従業員が生き生きと快く働いてもらえる環境を作るのは経営者の務めです。それを怠ると経営にも悪影響が出るのは間違いないでしょう。会社の業績アップには、「経営者」の成長、そして「従業員」のレベルアップが不可欠なのではないかと思います。レベルアップを図るためには、社内での教育、訓練が欠かせません。愛情を注いだ指導を受け入れる「心」を作るのが先ということでしょうか。『企業は人なり』とよく言われますが、従業員と経営者の向かっていく気持ちを一致させていくことが、会社を前進させるための原動力です。 まずは、「経営者」たるもの、従業員が変わってくれるのを待っていてはいけないと思います。まずは、経営者が従業員から信頼されファンになってもらえるように自らそのやり方を変えていく、『「他」を改める前に自らを改めよ』と言われますが、今一度その言葉をかみしめていかねばならないと感じます。愛情をもって言ったつもりなのになぜ「パワハラ」と捉えられるのか、その原因を自ら考えてみるほかないと思います。職場の人間関係をより良くするために。それが会社業績アップにつながるでしょう。
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私の大学時代 「税理士への道」vs「クラシック音楽」
上旬のコラムには、私の趣味のクラシック音楽との付き合いについて掲載していたのですが、「税理士」「クラシック音楽」ともに関係してくるのが大学1年の時でありました。そのころの事の回想をさせていただこうと思います。中央大学商学部会計学科に進学したのは、昭和62年4月(1987年)のことです。東京での一人暮らしに大きな夢と希望を抱いて親元である岐阜県揖斐川町を離れました。父は、私が小学校高学年くらいから「自分の後を継いで税理士になってくれ」ということをずっと言ってきました。そこで、大学に進学したからには、公認会計士受験の勉強に専念するのだと、大学合格の頃から言われてきたと思います。中央大学ですと、学内で公認会計士受験のための講座として「経理研究所」の講座が設置されていましたので、そこに入って勉強するのだと親子で決めていたのです。 ところが、大学の中の新入生歓迎の独特のムードというものは恐ろしいものです。その決意を揺るがす’集団’と出会ってしまいました。「グリークラブ」という男声合唱団でした。そう、部員は男性のみです。女性禁制というわけではないですが、「男声」の音域が普通は出せないでしょうから。キャンパスの中で、懸命に勧誘している上級生の方に出会い、高校の時に合唱やっていたから、どんなものか「一度覗いてみよう」とついていった練習室でした。やや雑然とした練習室内に40人弱ほどの部員と新入生でしたでしょうか。部の「体験」も兼ねているということで、音とりから歌詞を付けていくところまで短い曲で実際に先輩を交えながらやっていました。面食らったのがいきなり「イタリア語」の合唱曲であったこと、そして何でこうも柔らかくて暖かみのあるハーモニーなのかと初めて中に入って歌ってみて感じたのです。背筋がぞくっとする感動を覚えました。そして、先輩たちのみでの合唱も、とても美しく端正に思えました。 いえ、合唱の技術だけでない、この部の先輩たちの面倒見の良さ、ノリの良いこと、とても楽しそうにやっていて、イキイキされている様子を見ました。やっぱり男性のみというのはテレもなく賑やかでいいなあと。先の2年程度の高校での合唱は、自分自身が十分に合唱に浸ることができなかった残念で物足りない部活で不完全燃焼だったことと対比すると雲泥の差に思えました。練習見学の後で、新入生が感想と入部の意思について、全員の前でインタビューされるのですが、即日「入部します!」と言ってしまっている自分がいました。 電話で父には、「申し訳ないけど、大学のうちはグリークラブをやらせてほしい」と頼みました。相当、父からは厳しいことを言われたのですが、最終的には折れてくれました。大学1年から公認会計士受験講座をやっていたら、将来は変わっていたのであろうか、こればかりは何とも言えません。「過去」はオール善と考えながらやっていく他ありません。正式名称は、『中央大学音楽研究部グリークラブ』という公認サークルに入って活動できた4年間があったおかげで今があるようにも思えます。大学時代については、満点とは言えないけれど、「グリー」だけでなく、色んなことにチャレンジができた4年間という認識です。かといって、自分のような大学生活を息子には勧めたくはないですが(笑)。
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私の大学時代 税理士への道
大学選びは、皆さんどのように決めていましたか?私の場合は、将来的に親の後を継ぐべく税理士になることを目標としていたので、税理士、公認会計士を多数輩出している大学に進学しようと決めていました。税理士になるルートは、大きく分けると四つになるでしょうか。 まず第一に税理士試験で所定の5科目に合格することです。会計学に属する簿記論及び財務諸表論に合格したのち、所得税法または法人税法を含む税法3科目に合格して合計5科目揃えることです。 次いで二つ目は、公認会計士試験に合格することです。大学では、税理士試験ではなくて、公認会計士になることをすすめられます。理由としては、大学での開講科目に科目内容が重複することが挙げられるでしょうか。受験者層も、税理士試験受験者の年齢層が高いのに対して、公認会計士試験受験者層は、大学生や20歳代が多かったのです。父も、最初は、公認会計士試験を志していました。私も、父の勧めなどもあり、公認会計士試験を最初は、志しました。 さて3つ目、4つ目については、手短に。当時は、大学院を二つ出ることによって税理士科目が受験免除となるという制度がありました(今は最低限会計科目1、税法に属する科目1を合格することが必須)。それと税務署などの税務に関連する官公署での実務経験年数により、税理士試験が免除となる制度があります。 税理士になる1番の近道は、大学生になって早々と公認会計士試験に向けた勉強をはじめて、在学中の4年次に試験合格してしまうことだと言われます。そうすれば、順調にいくならば25歳を前に、公認会計士になれて、税理士にも登録する資格ができるわけです。 税理士試験は、1科目づつとっていけば良いという気軽さはあるのですが、かえってそれが各科目の難度を高めているように思われます。簿記論、財務諸表論については、税理士入門者が受けることから、まだ広き門のように思うのですが、税法は、会計を合格して一定のフィルターを通過した受験者となるため少数激戦です。同じような理由で父も税理士試験でなくて、公認会計士試験を勧めていたのです。 公認会計士試験合格者を数多く輩出する大学というと、慶應義塾、早稲田と続きます。その次には、明治、中央の名前が連なります。私は、それら大学の中から入試制度が変則的であった慶應義塾以外を受験しました。結果、明治商学部と中央商学部に合格できたのですが、当時は緑多き近未来的なキャンパスでいいなあと思ったこと、学科が会計学科だったことから中央を選択したのです。 私の大学時代は、公認会計士試験に向けて一直線の予定でしたが、何のはずみであったでしょうか、全く方向性が外れてしまったのです。 この後は、次回に語らせていただきたいと思います。