コラム
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事務所50年を迎えて 昭和ノスタルジー
事務所創立50年を迎え、過去を振り返ってみています。 懐かしのあのころ、今とは違う風情があのころにはありました。 それをわが子たちは、当然ながら体験できないのが残念なことです。 私が生まれた昭和43年。というと、意外に先の悲惨な大戦から「23年」しか経っていないのですね。 まだ「平成年間」の方が長いのですね。かといって、私は戦争を体験している年でもなく、 身近にいた祖母より大垣が空襲で燃えているのを見たよという話を聞いたのを覚えているくらいです。 私の子供のころ印象的であった建物で今残っていない建物というと、 揖斐小学校校舎、揖斐小学校講堂、揖斐小学校南に存在した図書館。おおむね、小学校周りに懐かしのものはありました。 揖斐小学校校舎は、以前は「北舎、南舎」と2棟になっていましたが、 現在は少子化、近隣の人口減、流出の影響を受けて1棟に集約されてしまっています。 私が低学年の時に、北舎が木造建築から鉄筋コンクリート3階建てになりました。当時は、新しくなって、「独特の新しいにおい」に感激したものです。 講堂は、床に畳を敷いて柔道をしたなあ、その畳が積んである上で遊んだり、ステージ裏を走り回ったりしたなあとか、時に選挙の投票所になっていて、 親についていったこともあったかなあとか、小学校は自宅から徒歩2分の至近距離にありました。 三輪神社とともに身近な遊び場であったなあと思います。 そして、隣接していた図書館と歴史資料館。木造で、独特の雰囲気がありました。あまり本を一生懸命読んだ記憶がなく、2階にあった歴史的遺産に興味を 惹かれていたように思い出します。残念ながら、この図書館も今はなく、小学校の運動場になっています。 小学校の近隣には、今はほとんどなくなっているだろう「珠算塾」がありました。細い通路のやや奥まったところに、木造の塾の校舎。 冷房もない時代、蒸し暑い中、できないと悩みつつ通った記憶、その前後でいろんな遊びをした記憶が。先生も、「昭和風」でした。今だと問題になりそうなことを当時はやってました。木の四角い棒で頭をたたくんです、もちろん思い切りではないですけれど。にもかかわらず、数多くの塾生がいたということは、その当時はそんな「体罰」は気にされなかったのですね。さらに、懐かしの駄菓子屋。小学校の時は、自宅より楽に歩ける範囲に3軒あったのですが、いずれもなくなってしまいました。 「タイムマシーン」(ドラえもんの秘密兵器、これも昭和的かな)があったならば、昭和50年に行きたいですね。 自宅には、「はえとり」が食卓にあり、汲み取り式の便所であったり、食品添加物の多い食であったりと今の快適な生活に慣れた身にはと嫌になるから、1泊2日で帰ってきたくなると思いますけどね。 昭和の時代は、古いものをどんどん捨てる、壊す時代であったようにも思えるのです。それが、今では使えるものは残そう、できるだけ捨てないにシフトしました。 昭和の時代、懐かしいとは思うのですが、令和の現在の方がはるかに便利になり、快適になり、物が十分に生きわたっている良い時代に思えます。技術革新が私たちの生活を仕事の質を向上させてきていると思います。そのような日々の技術進歩に感謝をしながら生活していきたいものですね。
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三谷幸喜の大河ドラマが面白い
経営者たる者は、有名な歴史上の人物から学べということがよく言われています。昨年の大河では江戸末期から昭和初期までを生きた渋沢栄一(1840 ~1931)が主人公でした。彼の教えを記した「論語と算盤」も普遍的な教訓を数多く盛り込んだ名著であると思います。今年の大河ドラマは、初めて本格武家政権を樹立した源頼朝の義理の弟、北条義時が主人公であります。私は、北条義時って誰というくらい、鎌倉時代に詳しくありません。そして私は特別に大河ドラマが好きだというわけではありません。大河で全て観たのは、毛利元就だけ。しかし現在進行中の大河ドラマは、脚本を三谷幸喜さんが作っているということもあって最高に面白いなあ、退屈しないなあと思って観ています。 今年の大河ドラマのまず表題ですが、「鎌倉殿の13人」という表題であります。当然ながら鎌倉殿=源頼朝が登場するのは間違いないですよね。13人って誰なのかという疑問が湧いてきます。歴史の教科書を紐解きますと、当時、中学で学んだ時にしっくり来なかったのが、源頼朝が創始している鎌倉幕府であるのに、いつの間にやら執権である北条ばかりに時の権力者が変わっていくということでした。まずは、頼朝の重臣に北条氏が挙げられるのは間違いないとところなのであろうと容易に想像はつきます。頼朝の妻政子(御台所)が北条家出身であり、政子の父親である時政、政子の弟である義時が大いに登場してきます。そして、北条義時が主人公の物語なのです。義時役に映画「罪の声」での大熱演が光った小栗旬さんが演じていますね。そして、その主君である鎌倉殿に大泉洋。大泉の演技はすっとぼけたようでもあり、コミカルで、頼朝はこんなにわがままであったのかというくらいの聞かん坊ぶりを発揮していたのと同時に、回が進むにつれて、策士、先駆者、カリスマ的指導者の代名詞が思い浮かぶほどのヒーローぶりも浮かぶ上がってきます。時には恨まれても冷徹になれる人物として描かれていきす。 そして、それら男性陣を取り囲む女性陣たちも印象に残ります。特に小池栄子演じる政子。男性に従順というわけでなく、時に大いに不満をぶつけて夫をイライラさせ、本気に怒らせたりします。自己主張の強い女性、まさに女帝という言葉がしっくりします。頼朝の弟の義経に菅田将暉が配されていますが、とても破天荒で型破りな振る舞いをしています。戦は抜群にうまいが、政は上手くない人物であったのでしょうか。平家追討の立役者であるのに、頼朝との仲が悪くなり、討伐の対象とされてしまうあたりを見ると不器用な生き方をしてきたのだなあとも思えます。を数多く人物が登場するが、それぞれが特徴的でキャラクターが極めて引き立っています。 生々しい合戦シーンは少なく、武士の主従関係、天皇と武士との関係性、そして女性の嫉妬、夫婦間の一悶着など、現代社会にも通じるシーンが目白押しなのです。緊迫感のある中で、コミカルな仕草やセリフが混ざるのが三谷流なのでしょう。お茶目でかわいいと感じるのも人気の秘密だと思います。 鎌倉殿の13人の英語表題が、『The 13 Lords of the Shogun』ですよね。鎌倉など出てこないのです。「将軍の13人のLords」なのですよね。きちんとLordsと言い切っていますね。和訳は主人(あるじ)なのであろうけど、’御家人’を指すのでありましょう。邦題をそのままに直訳していないところがまた興味深いのです。そして邦題は、「御家人」と言ってしまわないところに興味を惹かれる。大泉洋、小栗旬、菅田将暉の実力派俳優に、西田敏行らの大ベテランも加わる豪華さに三谷流のコミカルさ、洒落たテンポ感。小栗旬演じる義時が、頼朝に添い続けてどのように変貌していくのか、政子の女帝ぶりはいかに描かれるのか。頼朝はどのように死んでいったのか謎が多いようです。その頼朝の死について、三谷はどのように描いていくのか今から興味が尽きません。私が三谷幸喜を知ったきっかけは、映画『ラヂオの時間』でありました。あまりに面白くて見事にハマったことを思い出します。 歴史は繰り返すといわれ、歴史上起こったことは2度3度と繰り返されています。昨今の新型コロナウィルスによる「感染症」も歴史上は何度も起きたことでしょう。感染症ということでは、大河は、真実ばかりを映像にしたものではなく、創作も混じっているのでしょう。しかしながら、楽しみながら学ぶ歴史上の有名人ということでは、漫画で学べる歴史同様に、素晴らしい教材ではないでしょうか。脚本の三谷さんは、歴史を面白く楽しく見せてくれる天才だなあと感じます。映画であると『本能寺ホテル』『清須会議』『ステキな金縛り(舞台は、現代ですが歴史的要素があります)』などいずれも興味深く、コミカルさもあり、くすっと笑えます。一度お試しあれ。
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パワハラについて思うこと
パワハラ防止が最近声高に叫ばれていますけれど、私から言わせるとどうしてこうも「パワハラ」と叫ばれないといけない時代になったかというのを疑問に思います。 私たち税理士は、常に経営者様と向き合っていますけれど、従業員との関係に悩む経営者は多いように見受けられます。 「従業員から残業代不払いでいきなり訴えられた」 「回収した代金を横領されてしまった」 「ハローワークに求人票を出しているが、まったく応募がない」 「従業員がけがを負ってしまった。なんとかしてあげたい」 ということを聞かされる一方で、 「うちの社員は、よく働いてくれる。そのおかげでずっとわが社は成長している。それに報いなければならない」 と話していただける社長もおられます。というように、法律に沿って事業運営はしないといけませんが、どちらかというと従業員思いの社長が大半なのではないですか。 そして残念ながら従業員側が、社長の思いを理解できないケースが多いように思います。 愛情ある指導が、いつしかパワハラになっている、その従業員を思って言ったことがかえってパワハラととらえられる。なんとも寂しい限りです。 私も以前は、従業員という立場がありました。その当時の上司の厳しい口調や態度に腹が立ちましたが、今思うと厳しく叱責されることで、気持ちが引き締まった、身になったようにも思えます。かえって、20数年経った今となっては、当時は懐かしくもあり、’鬼’になって叱ってくれた上司には恨みもなく感謝しかありません。 従業員が生き生きと快く働いてもらえる環境を作るのは経営者の務めです。それを怠ると経営にも悪影響が出るのは間違いないでしょう。会社の業績アップには、「経営者」の成長、そして「従業員」のレベルアップが不可欠なのではないかと思います。レベルアップを図るためには、社内での教育、訓練が欠かせません。愛情を注いだ指導を受け入れる「心」を作るのが先ということでしょうか。『企業は人なり』とよく言われますが、従業員と経営者の向かっていく気持ちを一致させていくことが、会社を前進させるための原動力です。 まずは、「経営者」たるもの、従業員が変わってくれるのを待っていてはいけないと思います。まずは、経営者が従業員から信頼されファンになってもらえるように自らそのやり方を変えていく、『「他」を改める前に自らを改めよ』と言われますが、今一度その言葉をかみしめていかねばならないと感じます。愛情をもって言ったつもりなのになぜ「パワハラ」と捉えられるのか、その原因を自ら考えてみるほかないと思います。職場の人間関係をより良くするために。それが会社業績アップにつながるでしょう。
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私の大学時代 「税理士への道」vs「クラシック音楽」
上旬のコラムには、私の趣味のクラシック音楽との付き合いについて掲載していたのですが、「税理士」「クラシック音楽」ともに関係してくるのが大学1年の時でありました。そのころの事の回想をさせていただこうと思います。中央大学商学部会計学科に進学したのは、昭和62年4月(1987年)のことです。東京での一人暮らしに大きな夢と希望を抱いて親元である岐阜県揖斐川町を離れました。父は、私が小学校高学年くらいから「自分の後を継いで税理士になってくれ」ということをずっと言ってきました。そこで、大学に進学したからには、公認会計士受験の勉強に専念するのだと、大学合格の頃から言われてきたと思います。中央大学ですと、学内で公認会計士受験のための講座として「経理研究所」の講座が設置されていましたので、そこに入って勉強するのだと親子で決めていたのです。 ところが、大学の中の新入生歓迎の独特のムードというものは恐ろしいものです。その決意を揺るがす’集団’と出会ってしまいました。「グリークラブ」という男声合唱団でした。そう、部員は男性のみです。女性禁制というわけではないですが、「男声」の音域が普通は出せないでしょうから。キャンパスの中で、懸命に勧誘している上級生の方に出会い、高校の時に合唱やっていたから、どんなものか「一度覗いてみよう」とついていった練習室でした。やや雑然とした練習室内に40人弱ほどの部員と新入生でしたでしょうか。部の「体験」も兼ねているということで、音とりから歌詞を付けていくところまで短い曲で実際に先輩を交えながらやっていました。面食らったのがいきなり「イタリア語」の合唱曲であったこと、そして何でこうも柔らかくて暖かみのあるハーモニーなのかと初めて中に入って歌ってみて感じたのです。背筋がぞくっとする感動を覚えました。そして、先輩たちのみでの合唱も、とても美しく端正に思えました。 いえ、合唱の技術だけでない、この部の先輩たちの面倒見の良さ、ノリの良いこと、とても楽しそうにやっていて、イキイキされている様子を見ました。やっぱり男性のみというのはテレもなく賑やかでいいなあと。先の2年程度の高校での合唱は、自分自身が十分に合唱に浸ることができなかった残念で物足りない部活で不完全燃焼だったことと対比すると雲泥の差に思えました。練習見学の後で、新入生が感想と入部の意思について、全員の前でインタビューされるのですが、即日「入部します!」と言ってしまっている自分がいました。 電話で父には、「申し訳ないけど、大学のうちはグリークラブをやらせてほしい」と頼みました。相当、父からは厳しいことを言われたのですが、最終的には折れてくれました。大学1年から公認会計士受験講座をやっていたら、将来は変わっていたのであろうか、こればかりは何とも言えません。「過去」はオール善と考えながらやっていく他ありません。正式名称は、『中央大学音楽研究部グリークラブ』という公認サークルに入って活動できた4年間があったおかげで今があるようにも思えます。大学時代については、満点とは言えないけれど、「グリー」だけでなく、色んなことにチャレンジができた4年間という認識です。かといって、自分のような大学生活を息子には勧めたくはないですが(笑)。
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私の大学時代 税理士への道
大学選びは、皆さんどのように決めていましたか?私の場合は、将来的に親の後を継ぐべく税理士になることを目標としていたので、税理士、公認会計士を多数輩出している大学に進学しようと決めていました。税理士になるルートは、大きく分けると四つになるでしょうか。 まず第一に税理士試験で所定の5科目に合格することです。会計学に属する簿記論及び財務諸表論に合格したのち、所得税法または法人税法を含む税法3科目に合格して合計5科目揃えることです。 次いで二つ目は、公認会計士試験に合格することです。大学では、税理士試験ではなくて、公認会計士になることをすすめられます。理由としては、大学での開講科目に科目内容が重複することが挙げられるでしょうか。受験者層も、税理士試験受験者の年齢層が高いのに対して、公認会計士試験受験者層は、大学生や20歳代が多かったのです。父も、最初は、公認会計士試験を志していました。私も、父の勧めなどもあり、公認会計士試験を最初は、志しました。 さて3つ目、4つ目については、手短に。当時は、大学院を二つ出ることによって税理士科目が受験免除となるという制度がありました(今は最低限会計科目1、税法に属する科目1を合格することが必須)。それと税務署などの税務に関連する官公署での実務経験年数により、税理士試験が免除となる制度があります。 税理士になる1番の近道は、大学生になって早々と公認会計士試験に向けた勉強をはじめて、在学中の4年次に試験合格してしまうことだと言われます。そうすれば、順調にいくならば25歳を前に、公認会計士になれて、税理士にも登録する資格ができるわけです。 税理士試験は、1科目づつとっていけば良いという気軽さはあるのですが、かえってそれが各科目の難度を高めているように思われます。簿記論、財務諸表論については、税理士入門者が受けることから、まだ広き門のように思うのですが、税法は、会計を合格して一定のフィルターを通過した受験者となるため少数激戦です。同じような理由で父も税理士試験でなくて、公認会計士試験を勧めていたのです。 公認会計士試験合格者を数多く輩出する大学というと、慶應義塾、早稲田と続きます。その次には、明治、中央の名前が連なります。私は、それら大学の中から入試制度が変則的であった慶應義塾以外を受験しました。結果、明治商学部と中央商学部に合格できたのですが、当時は緑多き近未来的なキャンパスでいいなあと思ったこと、学科が会計学科だったことから中央を選択したのです。 私の大学時代は、公認会計士試験に向けて一直線の予定でしたが、何のはずみであったでしょうか、全く方向性が外れてしまったのです。 この後は、次回に語らせていただきたいと思います。
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歌舞伎って面白い!
5月3日というと日本国内では「憲法記念日」でありますが、同日の揖斐川町のイベントというと、町の公営施設での歌舞伎のお披露目の日なのです。 前の投稿で、いび祭りについて書きましたが、5月4日、5日のいび祭りでの奉納歌舞伎に先立って、町の支援を受けて地域交流センターはなももの大ホールで公演が開催されることになっています。私自身でもこの公演は大変思い出深いものがありましたので、観に行ってきました。 私の息子が、子ども歌舞伎に出演したのが7年前。親が裏方を務めるのが通例で、私は舞台向かって左手側で「つけ打ち」をやっておりました。息子と同じ舞台で、息子の演じるのを見られる幸せをかみしめながらというのは、3日の公演においては、まだそんな余裕はなかったかなあということを思い出しました。今年も、同じ演目にて上演がなされていたため、筋書きやコラムの編集に携わった私の経験からセリフもそれなりに記憶しているので、各役者のセリフ、義太夫の唄う情景描写、登場人物の心情描写も聞き取りやすいですね。こんな場面があったなあと7年前を懐かしく思い出しつつ見させていただきました。 7年前との比較をすると、今回のほうが学年の高い子たちが目立ちました。これは、コロナが影響するところであるところです。本来ならば、今年演じる子たちは、2年前に演じる予定であった子であったからです。中には、中学生になったしまった子もいました。今までならば小学生の児童限定であったように思います。 コロナの影響とは無関係であったと思いますが、太夫、三味線が、プロから地元中学生が担当するように変更されたのも目新しいところでした。自前で、新しい揖斐川の歌舞伎の伝統を創造していこうとされる歌舞伎保存会のご努力に感銘を受けます。中学生たち、中学生活と両立しながら練習に励まれて立派に舞台での役者を引き立てていたと思います。敬意を表したいです。 そして、役者登場に合わせた横笛の演奏。本来ならば、太鼓も加わるのでしょうけれど、コロナ禍での縮小開催に合わせたものとも解釈できるのですが。実は、7年前は私が太鼓を打っていて、拍子をとっていました。やはり笛だけだとずれてしまいやすいようで、十分に演奏になれていない方もおられるためか、まとまりを欠いていたようです。残念ながら、2年前の病気によって私は、太鼓たたきながらの入場など厳しくなってしまったのです。おそらく、後遺症から回復しなければ、お囃子に加わることはかなわないことであろうと思います。そのかわりに、祭りの音楽を十分に五感を使って聴きたいものだと思っています。 今回の演目、「芦屋道満大内鑑 狐葛の葉後日噺」は、つるの恩返しのきつねバージョンと思ってよいのでは。鶴は、妖術を使わないけれど、狐は妖術を使えるのが違うかなとか。それとともに、親の仇をうつという歌舞伎おなじみのテーマを合わせもっている。また、陰陽師安倍晴明の出生の秘話も背景にある。すじがきを分かりやすい現代語にしたものを読み、物語の背景を学習すると大変とっつきやすいと思うのです。それとともに、太夫と三味線のコラボレーションによる歌と音楽。つけ打ちや太鼓による効果音。役者の衣裳についてもきらびやかな光彩を放ち、衣裳替えもあると、とても映える。子ども歌舞伎は、演技としては未熟な面もあろうけれど、懸命に演じる姿に神様が宿ってくれるのではないかと思ってしまいます。「歌舞伎」は江戸時代から続く日本の伝統。長年続くいび祭りの1ページに自分の名前が、家族の名前が刻み込まれているのは大変名誉なことと感じながら、鑑賞させていただきました。
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「新風」に「福」を見出す
年度末、年度初めの異動の季節が終わりました。当事務所では、例年以上に多くの人員が異動しました。長年勤続していただいたスタッフに感謝するとともに、華々しく送別会を行いたいところですが、コロナ感染予防をしていかなければならぬことからままなりません。所属の課ごとに送別会、歓迎会をやっていただくことにしています。コロナの影響も3年目に入りました。相変わらず、2年前に新卒で入社したスタッフとの懇親会ができずじまいで、大変残念に思っています。今年度こそはと懇親会を堂々とやってもよい雰囲気になることを期待します。 私の長男建太(けんた)は、今春大学を卒業し、新社会人となり、ようやくこの社会に貢献できるようになってくれるところまでに成長しました。まずは、肩の荷の重さも半分程度になったかのような気持ちになっています。こうして、子どもを社会に送り出す気持ちを味わうと、ああ長年、両親にも重い荷物を担がせてきたのだなあと感謝の念も沸いてまいります。職場に新人を迎えると新しい空気感が生まれますが、長男も、「新しい風」を吹かせる存在になってほしいものだと思っています。そして、三男末っ子大洋(たいよう)は、義務教育の課程を修了し、新学期からは高校生になり、電車に乗り大垣に通っています。中学の学習内容からはるかに高度になった、舐めてかかれないと身が引き締まる思いをしているようです。そのような緊張感、初心を忘れずに勉学に、仕事に励むことで良い人生が切り開かれるのではないでしょうか。 私どもが、昨年11月からより創業50年を機会に7ヶ条からなる行動規則を制定しました。そのイの一番に「私たちは、明るく楽しく美しく働きます」という規則を作りました。仕事は、明るい表情で喜んでやってもらいたい、働くときでも、楽しくやってもらい、顧問先様などに活力のある事務所を感じていただきたいとのそれは私の願いであるからです。これには、礼儀正しく明るい挨拶ができていることも含まれます。以前在籍した職員の中に、私に対して「代表は、仕事が楽しいですか?」と聞いてきた人がいましたが、それを聞いた私は、カチンと来てしまいました。アルバイト時代を含め、私は、自分の仕事を苦しみであるとか、やむなく生活のためにやっていると思ったことはありません。確かに、頭を悩ます問題は多々ありますが、その問題を解決できた時って、気持ちが晴れ渡って気持ちいいではありませんか。そして、「美しく」働くのも大事でしょう。物を大切に、きれいに取り扱う、姿勢を正しく「見栄え良く」という意味を含めて美しく働くという表現をしています。姿勢を正し、すーっと背筋が伸びた姿が「おお、美しい」と思った方がいましたから、その方をイメージして作ったものなのです。 最初の頃の新人さん達は、ほとんどが「希望に燃えて胸を張って」いるのではないでしょうか。そのような姿勢が「福」を呼び込むものであると私は思うのです。ですから、新人さんたちがもたらす「新風は福をもたらす」と言って過言ではないと感じます。
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3年ぶり!いび祭り復活を歓迎する!
事務所の所在する「揖斐川町三輪」の三輪神社の例大祭であるいび祭りは、ようやく今年は開催されることになりました。 2年の間、全く祭礼が行われなかったいび祭り。笛太鼓の音に、心躍らせた日常が戻ってくると思うと、胸を躍らせずにはおれません。 とはいうものの、コロナ禍での祭りの開催で、かなり規模が縮小されてしまいます。 さて、いび祭りがこのように中止されたのは、太平洋戦争(大東亜戦争)の戦中戦後にもありました。そして再開されるのは昭和25年(1950年)でした。 その子ども歌舞伎には、私の父が熊谷次郎直実として出演させていただきました。その30年後(1980年、昭和55年)に、私が赤穂浪士の一人である潮田として出演させていただきました。 そのまた30年後(2010年)に、私の長男と二男が出演しました。さらにその5年後(2015年)には三男が出演しました。 2010,2015のいずれも私は、裏方で「冊子づくり」「祭りの寄付集め」「本番でのつけ打ち」など奔走させていただきました。もちろん、1950年は、生まれる前で何も分かりませんですが。 自分自身としては、思い出深い「いび祭り」なのです。そして、我が家族が関連している西暦でいう出演年は、すべて5の倍数ではないですか。この理由は、決まっていて町内には、5つのやま(車へんに山)があるのですが、その5つのやまの舞台上で子ども歌舞伎は演じられるのです。本当に狭い舞台です。体が大きなおとなですと「つりあい」がとれません。子どもが演じるからこそ見栄えのする舞台であると思います。5つの町で交代交代で子どおもも歌舞伎が演じられてきたのです。同じ町内であれば、5年に一度の当番町になるという意味です。 そんなことで、私が生まれ育ったの町内は、揖斐川町三輪の上町(カンマチとかカミマチと言ってます)でした。上町は5の倍数が、当番の年であったということです。今は、他の町内である事務所近郊の前島に自宅はありますが、上町に子どもがいる世帯が少数であること、私や父が生まれ育った地があるという縁故の存在から、上町の役員さんから依頼を受けて出演させていただいたり、裏方を務めさせたりさせていただいています。 すっかり思い出話となってしまいました。現実に戻しましょう。 今年の開催の特徴は、 ①人が神輿を担がず車で運ぶこと ②奉納芸である子ども歌舞伎は行うこと ③やまは、歌舞伎を行う上町のみ出ること ④歌舞伎の上演は、夜に行わないこと ⑤さらに三輪神社境内にての上演がないこと が例年とは異なり、露店ももちろんありません。随分華やかさに欠ける祭りではありますが、再び祭りが開催される日が到来したことを喜びたいと思っています。 戦後からの復興の際も上町から、コロナ禍からの再開も上町からというのも何かの因縁なのでしょうか。上町のやまは、令和の大改修を終えての初のお披露目となります。新調された高砂やまの雄姿が拝めるのを楽しみにしたいです。 上町区長より「早くコロナウイルス感染が終息します様に願いを込めて奉納芸を上演させて頂きます」とあります。私たちも同様の気持ちで子ども歌舞伎を、そしていび祭りを応援したいと思います。