コラム
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歌舞伎って面白い!
5月3日というと日本国内では「憲法記念日」でありますが、同日の揖斐川町のイベントというと、町の公営施設での歌舞伎のお披露目の日なのです。 前の投稿で、いび祭りについて書きましたが、5月4日、5日のいび祭りでの奉納歌舞伎に先立って、町の支援を受けて地域交流センターはなももの大ホールで公演が開催されることになっています。私自身でもこの公演は大変思い出深いものがありましたので、観に行ってきました。 私の息子が、子ども歌舞伎に出演したのが7年前。親が裏方を務めるのが通例で、私は舞台向かって左手側で「つけ打ち」をやっておりました。息子と同じ舞台で、息子の演じるのを見られる幸せをかみしめながらというのは、3日の公演においては、まだそんな余裕はなかったかなあということを思い出しました。今年も、同じ演目にて上演がなされていたため、筋書きやコラムの編集に携わった私の経験からセリフもそれなりに記憶しているので、各役者のセリフ、義太夫の唄う情景描写、登場人物の心情描写も聞き取りやすいですね。こんな場面があったなあと7年前を懐かしく思い出しつつ見させていただきました。 7年前との比較をすると、今回のほうが学年の高い子たちが目立ちました。これは、コロナが影響するところであるところです。本来ならば、今年演じる子たちは、2年前に演じる予定であった子であったからです。中には、中学生になったしまった子もいました。今までならば小学生の児童限定であったように思います。 コロナの影響とは無関係であったと思いますが、太夫、三味線が、プロから地元中学生が担当するように変更されたのも目新しいところでした。自前で、新しい揖斐川の歌舞伎の伝統を創造していこうとされる歌舞伎保存会のご努力に感銘を受けます。中学生たち、中学生活と両立しながら練習に励まれて立派に舞台での役者を引き立てていたと思います。敬意を表したいです。 そして、役者登場に合わせた横笛の演奏。本来ならば、太鼓も加わるのでしょうけれど、コロナ禍での縮小開催に合わせたものとも解釈できるのですが。実は、7年前は私が太鼓を打っていて、拍子をとっていました。やはり笛だけだとずれてしまいやすいようで、十分に演奏になれていない方もおられるためか、まとまりを欠いていたようです。残念ながら、2年前の病気によって私は、太鼓たたきながらの入場など厳しくなってしまったのです。おそらく、後遺症から回復しなければ、お囃子に加わることはかなわないことであろうと思います。そのかわりに、祭りの音楽を十分に五感を使って聴きたいものだと思っています。 今回の演目、「芦屋道満大内鑑 狐葛の葉後日噺」は、つるの恩返しのきつねバージョンと思ってよいのでは。鶴は、妖術を使わないけれど、狐は妖術を使えるのが違うかなとか。それとともに、親の仇をうつという歌舞伎おなじみのテーマを合わせもっている。また、陰陽師安倍晴明の出生の秘話も背景にある。すじがきを分かりやすい現代語にしたものを読み、物語の背景を学習すると大変とっつきやすいと思うのです。それとともに、太夫と三味線のコラボレーションによる歌と音楽。つけ打ちや太鼓による効果音。役者の衣裳についてもきらびやかな光彩を放ち、衣裳替えもあると、とても映える。子ども歌舞伎は、演技としては未熟な面もあろうけれど、懸命に演じる姿に神様が宿ってくれるのではないかと思ってしまいます。「歌舞伎」は江戸時代から続く日本の伝統。長年続くいび祭りの1ページに自分の名前が、家族の名前が刻み込まれているのは大変名誉なことと感じながら、鑑賞させていただきました。
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「新風」に「福」を見出す
年度末、年度初めの異動の季節が終わりました。当事務所では、例年以上に多くの人員が異動しました。長年勤続していただいたスタッフに感謝するとともに、華々しく送別会を行いたいところですが、コロナ感染予防をしていかなければならぬことからままなりません。所属の課ごとに送別会、歓迎会をやっていただくことにしています。コロナの影響も3年目に入りました。相変わらず、2年前に新卒で入社したスタッフとの懇親会ができずじまいで、大変残念に思っています。今年度こそはと懇親会を堂々とやってもよい雰囲気になることを期待します。 私の長男建太(けんた)は、今春大学を卒業し、新社会人となり、ようやくこの社会に貢献できるようになってくれるところまでに成長しました。まずは、肩の荷の重さも半分程度になったかのような気持ちになっています。こうして、子どもを社会に送り出す気持ちを味わうと、ああ長年、両親にも重い荷物を担がせてきたのだなあと感謝の念も沸いてまいります。職場に新人を迎えると新しい空気感が生まれますが、長男も、「新しい風」を吹かせる存在になってほしいものだと思っています。そして、三男末っ子大洋(たいよう)は、義務教育の課程を修了し、新学期からは高校生になり、電車に乗り大垣に通っています。中学の学習内容からはるかに高度になった、舐めてかかれないと身が引き締まる思いをしているようです。そのような緊張感、初心を忘れずに勉学に、仕事に励むことで良い人生が切り開かれるのではないでしょうか。 私どもが、昨年11月からより創業50年を機会に7ヶ条からなる行動規則を制定しました。そのイの一番に「私たちは、明るく楽しく美しく働きます」という規則を作りました。仕事は、明るい表情で喜んでやってもらいたい、働くときでも、楽しくやってもらい、顧問先様などに活力のある事務所を感じていただきたいとのそれは私の願いであるからです。これには、礼儀正しく明るい挨拶ができていることも含まれます。以前在籍した職員の中に、私に対して「代表は、仕事が楽しいですか?」と聞いてきた人がいましたが、それを聞いた私は、カチンと来てしまいました。アルバイト時代を含め、私は、自分の仕事を苦しみであるとか、やむなく生活のためにやっていると思ったことはありません。確かに、頭を悩ます問題は多々ありますが、その問題を解決できた時って、気持ちが晴れ渡って気持ちいいではありませんか。そして、「美しく」働くのも大事でしょう。物を大切に、きれいに取り扱う、姿勢を正しく「見栄え良く」という意味を含めて美しく働くという表現をしています。姿勢を正し、すーっと背筋が伸びた姿が「おお、美しい」と思った方がいましたから、その方をイメージして作ったものなのです。 最初の頃の新人さん達は、ほとんどが「希望に燃えて胸を張って」いるのではないでしょうか。そのような姿勢が「福」を呼び込むものであると私は思うのです。ですから、新人さんたちがもたらす「新風は福をもたらす」と言って過言ではないと感じます。
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3年ぶり!いび祭り復活を歓迎する!
事務所の所在する「揖斐川町三輪」の三輪神社の例大祭であるいび祭りは、ようやく今年は開催されることになりました。 2年の間、全く祭礼が行われなかったいび祭り。笛太鼓の音に、心躍らせた日常が戻ってくると思うと、胸を躍らせずにはおれません。 とはいうものの、コロナ禍での祭りの開催で、かなり規模が縮小されてしまいます。 さて、いび祭りがこのように中止されたのは、太平洋戦争(大東亜戦争)の戦中戦後にもありました。そして再開されるのは昭和25年(1950年)でした。 その子ども歌舞伎には、私の父が熊谷次郎直実として出演させていただきました。その30年後(1980年、昭和55年)に、私が赤穂浪士の一人である潮田として出演させていただきました。 そのまた30年後(2010年)に、私の長男と二男が出演しました。さらにその5年後(2015年)には三男が出演しました。 2010,2015のいずれも私は、裏方で「冊子づくり」「祭りの寄付集め」「本番でのつけ打ち」など奔走させていただきました。もちろん、1950年は、生まれる前で何も分かりませんですが。 自分自身としては、思い出深い「いび祭り」なのです。そして、我が家族が関連している西暦でいう出演年は、すべて5の倍数ではないですか。この理由は、決まっていて町内には、5つのやま(車へんに山)があるのですが、その5つのやまの舞台上で子ども歌舞伎は演じられるのです。本当に狭い舞台です。体が大きなおとなですと「つりあい」がとれません。子どもが演じるからこそ見栄えのする舞台であると思います。5つの町で交代交代で子どおもも歌舞伎が演じられてきたのです。同じ町内であれば、5年に一度の当番町になるという意味です。 そんなことで、私が生まれ育ったの町内は、揖斐川町三輪の上町(カンマチとかカミマチと言ってます)でした。上町は5の倍数が、当番の年であったということです。今は、他の町内である事務所近郊の前島に自宅はありますが、上町に子どもがいる世帯が少数であること、私や父が生まれ育った地があるという縁故の存在から、上町の役員さんから依頼を受けて出演させていただいたり、裏方を務めさせたりさせていただいています。 すっかり思い出話となってしまいました。現実に戻しましょう。 今年の開催の特徴は、 ①人が神輿を担がず車で運ぶこと ②奉納芸である子ども歌舞伎は行うこと ③やまは、歌舞伎を行う上町のみ出ること ④歌舞伎の上演は、夜に行わないこと ⑤さらに三輪神社境内にての上演がないこと が例年とは異なり、露店ももちろんありません。随分華やかさに欠ける祭りではありますが、再び祭りが開催される日が到来したことを喜びたいと思っています。 戦後からの復興の際も上町から、コロナ禍からの再開も上町からというのも何かの因縁なのでしょうか。上町のやまは、令和の大改修を終えての初のお披露目となります。新調された高砂やまの雄姿が拝めるのを楽しみにしたいです。 上町区長より「早くコロナウイルス感染が終息します様に願いを込めて奉納芸を上演させて頂きます」とあります。私たちも同様の気持ちで子ども歌舞伎を、そしていび祭りを応援したいと思います。
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行政書士の業務はご存じですか?
当事務所では税理士業務、社会保険労務士業務、保険代理店業務の他に、「行政書士の業務」も行っています。 行政書士の業務とは? 「官公署に提出する許認可等の申請書類の作成並びに提出手続代理、遺言書等の権利義務、事実証明及び契約書の作成。行政不服申し立て手続代理等」 が主な業務となります。 文章にしてみると、よくわからないですよね。 事実、行政書士が取り扱える業務は1万点以上とも言われています。 その為、同じ行政書士の中でも得手不得手や、そもそも受任したことがないという業務も多くあります。 当事務所では、主に「建設業許可申請」「経営事項審査申請」「共同入札参加資格申請」を取り扱っています。 その他、ご依頼があれば「一般貨物自動車運送業許可申請」「酒類販売資格申請」「建築事務所関連申請」なども取り扱っています。 ここ最近では、コロナウイルス関連で「持続化給付金」等の申請もお手伝いさせていただいています。 また、相続に関する業務として「遺言書」の作成や「遺産分割協議書」の作成のご依頼もいただくことがあります。 結果、相続税の申告が必要な場合には当事務所の「けやきパートナーズ税理士法人」にお任せ下さい。 当事務所が得意な業務はメインである税理士業務が建設業のお客様が多いため、建設業許認可申請関係が中心ですが、 ご依頼いただければどのような業務でもご相談可能ですので、お気軽にお問い合わせください。 総務企画課 課長 ・ 行政書士業務担当 横山 正樹
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思い出をデジタルに
*上の写真、私の幼児期です。カラーはまだ少ない時期です。父と祖母と母に囲まれ、自宅の庭で撮影したものです。(掲載にあたり解像度をさげています) 私は、昭和43年生まれで、生まれてから今まで50年以上が経過しています。さすがに、幼児期の頃の写真は、色あせています。小さい頃の写真は、まだ白黒写真も多くて、大学時代についても白黒写真があったりします。「写真」の精細は向上していっていることが分かります。長男が生まれた平成11年でもまだ、デジタル写真は比率が低く、フィルムをキタムラカメラなどに持って行って、現像していたのを思い出します。さほど焼き増しなどしないネガの置き場に困ったりしましたね。結局、ほとんどすぐに捨ててしまっていたように思います。「フィルム」「ネガ」はいつの間にか見かけることがなくなってしまいました。 平成20年代になると、デジタルカメラが当たり前になり、次いでスマートフォンで十分に美しい写真が簡単に撮れて、すぐさまみられることができるようになりました。写真をネット上に公開するのがとても身近になっていきました。 写真のデータがデジタル化されると、あまり写りが良くない写真はプリントしない、消去したりすることもできて便利になりましたね。 厚いアルバムに貼られた思い出たち。もっとコンパクトに収納したい、できるだけもう劣化させたりしたくないと思い、思い出をデジタル化することを決意し、準備して送付したのが昨年の9月。ようやくこの4月になって、納品されてきました。「節目写真館」で、14000円ほどかかりましたが、色の補正もしていただいていて、思い出が鮮やかによみがえる感じになります。私が生まれた時から大学卒業までの思い出、自分の歩いてきた道をたまに辿ってみるのもいいことだと思いませんか。両親への感謝の思いがわき、祖父母との思い出もよみがえってくるように思います。
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私の趣味 クラシック音楽③高校時代より合唱の世界へ
中学では、吹奏楽部でトロンボーンを吹いていましたが、残念なことに進学した大垣東高校には吹奏楽部がありませんでした。吹奏楽部があれば、入っていたことであろうと思います。代わりにハンドボール部に所属しましたが、中学三年間にスポーツ系部活に属さずにきたため、他の部員との差が厳しく、場違いと感じ、3ヶ月ほどでやめることになってしまいました。吹奏楽部に近いというと合唱をやる音楽部が存在していましたが、男子部員が1人だけで、入部するのを躊躇っていました。 ところが、同じクラスで、音楽部を希望していた男子がいるということを知り、その彼と中途で入部することになりました。 その後、中学で吹奏楽部をやっていた同級生2人を加えて、男子のコアなメンバーとなりました。他に美術部から臨時部員として入ってもらったり、新1年を女子部員が臨時部員を勧誘してきたりして、2年の時は、なんとか音楽部は女声合唱から混声合唱になることができました。コンクールの課題曲(選択曲)と自由曲を特に専門的な先生が来て指導されるのではなく、時々OBの方が指導に来て指導されるというように運営されていました。そして、本番は生徒の指揮で出場していました。 そんな中、後輩で吹奏楽部に所属していた人たちと一緒になって、東高にも吹奏楽部を設置してほしいということで、運動をしました。残念ながら、実現できずに解散させられてしまいました。無謀なことをやったものだと思うのですが、その頃は、まじめに、「仲間はそれなりに集まった、吹奏楽部を設立させるぞ」という意気込みではあったのですが、先生方に全く取り上げてもらえなかったのです。 結局、指揮をやっていた3年の先輩が退部し、私が指揮者をやることになりました。それなりに中学から指揮をやっていたので自信はあったのですが、前の先輩たちと比較されて違うということで、色々と言われたり、こちらの言っていることを聞いてもらえなかったり、懸命に合唱やるという姿勢に部員を引っ張ることができなかったのでした。NHKのコンクールと全国合唱連盟のコンクールに出場したのですが、順位が公表される大会では、中位ほどだったと思います。 3年になると、3年男子部員が退部したので、女声合唱にまた戻ってしまったのです。なぜ自分は退部しなかったのか記憶していないのですが、私はそのまま部活動を続けていました。引き続き指揮者として。特に誰に習うのでもなくという感じで、中学での吹奏楽部での経験をベースにして3年の半年ほど続けていました。よくやっていたなあと思います。先生や両親から部活動やめたらとは当時言われた記憶はありません。よく続けさせてもらえたものです。 コンクールで演奏したのは、2年の時は、いずれも日本語合唱曲3曲。3年の時に、連盟のコンクールでラテン語で演奏する宗教音楽を演奏しました。ラテン語での歌唱は、これが初めてでした。順位は、2年の時よりも上がったと思うのですが、部員の熱が上がっていかないので、不完全燃焼であったように思います。まるでやり切った感じはしなかったのです。 大垣東高校の音楽部は、伝統的にカリスマ的な指揮者が出ていたので、コンクールでも優秀な成績でした。私は、全く足元に及ばなかったのでしょう。中学時代は、吹奏楽部にいても、歌えない部員ではいけないという顧問の先生の考えから、よく合唱もやったものでした。だから、合唱も大好きで思い切って歌っていました。その時の顧問の指導を生かした指揮をしていたのです。いずれにせよ、ステージでみんなで歌った経験よりも、前に出て、指揮をしていたのがほとんどであった高校生時代であったと思います。
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経営者の身近なパートナー‘税理士’
わが事務所が、今年2022年に創立50周年を迎えたということで、長年お世話になっているお客様、取引先様には厚く御礼申し上げます。 現在の代表者である私、国枝宗徳が当事務所のお客様と初めてお仕事でお会いしたのが、2002年4月のことでちょうど20年が経過したことになります。ですから、まだ事務所の歴史の半分にも満たないことになります。 実は、この私でも、事務所の歴史の半分も知らないということであり、50年の長期間、事務所を継続できていることに対して創業者の先代国枝隆に敬意を表するとともに、これまで支えていただいてきた従業員の皆さん、幹部の皆さんに深く感謝しています。 当事務所は、税理士業務である会計業務、税務業務を基幹業務としてお客様にサービスを提供してきていますが、お客様からのニーズは幅広く、税務会計に限られるものではありません。資金繰り対策、助成金や補助金に関するニーズ、人財に関する問題、組織の意思決定にかかわる問題、社会保険に関する問題、事業承継に関する相談、業者の紹介依頼、受注先紹介の依頼など多岐にわたります。 このことは、私どもの税理士事務所は、経営者から「企業経営全般」について身近で気軽に相談できるところであると認識されているからではないかと思っています。それが、税理士事務所の強みでもあるのと思います。私自身では、そのように経営者から頼っていただけることを生きがい、仕事のやりがいであるととらえてやってきました。そして、できる限りお客様の期待に応えようという気持ちで職務遂行してきました。今後、私は70歳までは第一線で仕事をしていくつもりでいますが、その姿勢はまったく変えません。 50周年を機会に事務所名を「けやきパートナーズ」と変更しましたが、改めてスタッフ一人一人がお客様と共に走る伴走型支援をできるかを問い直してまいります。全スタッフが、お客様の真のパートナーになるよう切磋琢磨していきます。40年以上の長きにわたるお取引があるお客様で大きく成長された会社でも、経営者が世代交代されています。お客様のそのような歴史をともに喜べるのも私どもの税理士の良いところだと思っています。「経営に悩んだら、まずはけやきパートナーズ」とどのお客様にも思っていただける存在になるように努力していきます。
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ビジネス用語に思う
リソース,アサイン,アジェンダ,バッファ,コミットメント…これらのような「ビジネス用語」と呼ばれるものは年々増えているように感じます。この2,3年の間に耳にする機会が増えたビジネス用語といえば「エビデンス」が挙げられます。税務関係のセミナーや書籍を見れば「エビデンスの整え方」といったキャッチコピーを目にします。「エビデンス」は直訳すれば「証拠」になるのですが,「痕跡」や「物証」,「メモ書き」のようなものも含めた広い意味として,わざわざ使われているようです。 さて私にとっては大変馴染みがある「借方」「貸方」という簿記用語。英語の「debit-side」「credit-side」の日本語訳ですが,これを考えたのは偉大なる翻訳家とも称される福沢諭吉です。幕末から明治期にかけて福沢諭吉や西周を筆頭に,たくさんの外来語が日本語に訳されたのですが,その言葉には次のようなものがあります。 「individual」…個人 「philosophy」…哲学 「science」…科学 「time」…時間 「century」…世紀 「right」…権利 このような外来語に接するのは当時の選りすぐりの秀才達であり,彼らが初めて出会った概念を日本語にするための工夫や苦労,教養の深さは言うまでもありません。ところが近年は外来語をそのままカタカナに置き換えて使われることが多く,初めて耳にしたときには違和感を覚えるのは私だけではないはずです。もちろん情報伝達のスピードは明治期と現代ではまるで違っており,いちいち日本語に定義して周知する時間すらないことは理解できます。しかしながら明治期の偉人たちが現代にいたら,このような状況をどう見るのかと考えずにはいられません。 現代における外来語の翻訳語について、国立国語研究所の山田貞雄氏はこのように述べておられます。 『現代日本語において,分かりにくい外来語を言い換えたり,別語を言い添えたりして,上手に外来語を使ってゆこうとするのと,新造の訳語を案出して新規の概念や知識を定着させようとするのとでは,その目的や意識が異なります。既に日常の言語生活に流入・氾濫・混乱している外来語に対応するのと,新規に専門用語や新しい概念の輸入を積極的に意図的に行ったのとでは,おのずから方策も異なるべきと言えます。』 https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-96/ 既に日常の言語生活に流入している外来語,例えば「スマートフォン」という外来語に対して,日本中のほとんどの人が何を意味しているのか理解できるでしょう。今さらこの言葉を日本語で再定義をする必要はありません。ビジネス用語は「なぜその言葉を使うのか」という前提が周知されているからこそ,会話の効率性や伝わりやすさが発揮されるはずです。話す相手や状況に応じた言葉選び,話し方を意識しなければならないと感じます。 監査1課 森山傑