コラム

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クラシック音楽聴きに関西へ(大阪フィル定期公演)
地方と都会との違いというと圧倒的に違うのが、芸術に触れられる頻度ではないでしょうか。芸術は、生活していく上では絶対に必要というわけでもないし、数多くの人に鑑賞されなければ成立するものではありませんから。人が多い都会部であれば、演奏会の数も多く、舞台の数も多く、展覧会の回数も多くて、観に行く予定も立てやすいものです。 この3年間は、コロナによる規制で、遠方まで演奏会に行くことを避けてきました。よく予定されたものの中止ということもありましたが、今年4月ころからは、コロナ対策は個人の判断という流れになってきたため、久しぶりに演奏会目的で関西地区に行きました。 9月の下旬には、大阪の歴史ある管弦楽団である大阪フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会。大阪梅田駅より徒歩だとやや時間がかかるフェスティバルホールへ。このホールは、なんといってもエントランスが見事で、レッドカーペットを敷き詰めた階段が印象的です。その脇にエスカレータもあったのですが、階段を思わず上ってしまいたくなる華やかさが魅力です。大ホールの入り口手前には飲食店がいくつかあり、開演までに余裕があったので、おつまみ程度を食べてからホール客席へ。この日のプログラムは、シューベルトの長大な交響曲「グレイト」がメイン。前半は、今日の指揮者でもあるハインツ・ホリガ-氏自身の作曲作品含めて、二曲。いずれも耳になじみのないまさに現代音楽で、ほとんど聴いたことがないものでした。珍しいホリガ-自身のオーボエ独奏、客演のハープを加えた二重協奏曲。ホリガ-さんの奥さんがハープ奏者ということで、ホリガ-夫妻のために書かれた作品だそうで。後半は、私の好きな交響曲であるグレイト。この大阪フィルの演奏を一度聞いていますが、それが良かったため、同作品のファンになり、自宅でもグレイトを何度も聴きこんでいました。しかし、ホリガ-指揮のグレイトは、まったく違っていました。音を満たすのではなく、パートごとのメリハリを持たせた演奏。かといって大きな音量を追求しないようなタクトであったので、オーケストラの方がよく意図をくみとっているなあという印象を持ちました。その象徴的なのが、最終楽章の終わり方であったように思います。意外にも、静かな終わり方であって、多くの聴衆が拍子抜けしたのではないでしょうか。ホリガ-さんは、今はオーボエ奏者というよりも指揮者として、名曲に対して新しいアプローチでその良さを追求しているかのように思われました。具体的には、当日渡されたプログラムに書かれてあり、いつもと違うのだろうということは予想できていましたけど、大いに違っていて新鮮な感じがするグレイトでした。ホリガーさんも、80歳を超えていましたが、お元気で約60分もある交響曲を指揮されました。まだまだ、新しい解釈を、新しい息吹をクラシック界に送り込んでくれそうです。次の10月13日、14日には、名古屋フィルとの共演も予定されていますが、行けるかどうか不明なので、9月の終わりに大阪でのホリガーさん指揮を楽しんできたというわけでした。
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プロ野球ペナントレースもまもなく終了 関西ダービーでいいと思う!
10月になり、さすがに暑い日も少なくなり、朝晩も涼しく湿気が少なくなりましたね。これから2ヶ月半は過ごしやすい気候になって大変ありがたいことです。ようやくエアコンつけっぱなしの生活からは解放されました。そして、この季節だとプリ野球も大詰めですね。ただ、今年については、早々と優勝が決まってしまい、面白みに欠けますが、優勝した両チームが圧倒的に強かったということでしょう。いずれも関西地区のチーム、セリーグの阪神タイガース、パリーグのオリックスバファローズなのですが、開幕当初からほとんど落ち込むことなく順調に勝ち星を積み重ねていったという感じでした。 阪神の岡田監督の「アレ」という言葉が流行語になりましたね。「優勝」というのがタブーということでしたね。あまりに「優勝」を言いすぎると優勝を逃してしまうと。優勝を強く意識しすぎると選手が固くなってしまってというと、なんか情けなく思いますね。あなたがたプロでしょうって。とはいえ、岡田監督の「アレ」作戦がきいてか知りませんが、優勝間近の9月に全く負けずという離れ業でしたね。まったく平常心であったかのような戦い方でした。最近の阪神タイガース、ずっと地力があって強いチームであったのですが、勝ちきれなかったのですが、ベテラン監督がやはりという感じに思いました。岡田監督は、周りを明るくするオーラを発していると思います。大阪出身で、阪神、オリックスで選手時代を過ごし、監督も経験して、再度のご登場で、若い方にとってみると、なんだか年寄り監督ばかりになってしまったなあというように思う方もいたかなと思いますが。前回の18年前の阪神優勝も岡田さんということは、運も良い方なのだなあと思わされます。 対してオリックスバファローズは、パリーグ3連覇になりましたが、記憶にもまだ新しい昨年の最終戦での優勝決定。今年については、余裕があってのゴールインで、選手を無理使いせずに、まさに最後まで「馬なり」でした。先発オーダーもよく組み替えて、調子の良い選手をよく見極めていたのが印象に残ります。まさに、適時に適材適所の用兵力なんですね。そして、若い有能な投手が次から次に登場してくる育成能力の高さは、よく言われていますが感心させられます。打線の柱であった吉田選手が大リーグに行っても、代わりの選手が穴を埋めて、それ以上の結果を作り出していました。リーグ3連覇というのは、私の大学時代の「西武ライオンズ」以来らしいです。あの頃の西武は、本当に役者がそろっていたことが思い出されます。そのようなチームを作り上げられつつある中嶋監督。私と同学年なので、さらに応援してしまいます。それとGⅯの福良さんも現役時代は、イチローの後を打つ「巧打の二番バッター」、「絶対エラーしない安心の守備力の二塁手」でしたので、影となって中嶋監督を支援しているのでしょう。 ペナントの後には、クライマックスシリーズという敗者復活のような試合が組み込まれているので、優勝チーム同士が戦う日本シリーズが100%見れるかどうか分かりませんが、今までにほぼ実現しなかった(過去1度しかなかった)関西ダービーを楽しめたら良いなあと思います。
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伯父の死に接し思うこと
私の伯父が先日天に召されていきました。配偶者である伯母の死を見届けてからわずかに1年でした。1年ほど前、伯父さんの辛そうな表情を見て、母が「お兄ちゃん、しっかりしてよ」と声をかけていたのが、つい先日だったような気がします。従姉妹からは、「早かったなあ」という声が聞かれました。83歳でした。世間の平均から見ると早いのかな、人一倍健康に気を遣っていたのにって。伯父は、一宮に住んでいたので、「一宮のおじさん」と呼んでいました。大人になってからはあまり会う機会もなかったのですが、いつも意識していました。なぜか?自分の顔が徐々に伯父さんに似てきたからです。伯父は、若いころから頭髪が薄かったのですが、私も40代50代と年が経つごとに、徐々に抜けていきました。もともと目が細いところなども似ていたので、ああ自分もこの伯父のようになっていくのかなあと。職業は伯父はサラリーマンでありましたけれど、出身大学が私と同じなのです。「中央の法科」というのを、母が自慢げに語っていました。葬儀式場にて従妹たちに聞き取りをして作成されたと思われる「娘からの手紙」の中身を見ると、やはり私はこちらの血も引いているのであるなあと思わせてくれたのです。「旅行するのが好きで、私たちをよく旅行に連れて行ってくれました」とか「やると決めたことは、すぐにやらないと気がすまない性分」であったとか、それって私ではないかと思うくらい。家族を引っ張って旅行に連れて行っていた以前の自分を思い起こさせるものでした。 長男はどちらかというと母親に似ると言われていますが、あまり似ていると言われない創業者の父親と比較すると、圧倒的に私も母親に似ていると言われ続けてきました。そのお兄さんであるので、よく似ていて当然なのでしょう。棺桶の窓が開けられて、伯父の死んだ顔を見るに、自分も30年後くらいには、このようになるのかなあと想像してしまいます。高校以上に大きくなった孫にも囲まれて旅立たれた生涯は、悔いはなかったであろうなあと想像します。死の瞬間がいつ来るかが分からないので、人生は荒波の中を行く航海にようにも思えます。平穏な海を漕ぎ出すイメージではありません。荒波を何度も超えていくという覚悟をもって人生を歩んでいきたい。そして、我が人生に、一点の悔いもなしと高らかに宣言できるように生き方を見つめなおす。そのきっかけを与えてくれる伯父の死であったなあと思います。 伯父との思い出というと、おじさんの家から、電車に乗って名古屋駅まで一緒に行ったことでしょうか。高校3年生の時の夏休みに、大学予備校に2週間だけ通った際に、私にしてくてくれたことでした。満員電車の中で、伯父さんと一緒に行った名古屋、だから安心して受験勉強ができたのかもしれません。一宮のおじさん、ありがとう!安らかにお眠りください!
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脳出血入院から4年が経過して思うこと
私が脳出血で入院したのが、2019年9月9日。早くも4年経過しました。そのほとんどの期間は、コロナによる自粛ばかりの日々でしたので、イベントも少なく、身体を動かすことも少なかったのですが、コロナによる様々な規制も取り払われて、自由になりましたので、イベントもいつも通りになってきましたね。自分にとっては、コロナのおかげで、身体に無理をさせることなく済んでよかったのではないかと思えます。入院当初は、立ち上がることもできず、左腕も全く使えない状態でした、リハビリでかなり回復して車いすから解放されて、杖からも解き放たれてとそこまで来たのですが。今でも走るのはできない、パソコンは、右手一本打ちであり、皿を左で持ち運びができません。そんな身体になりますと、今まで引き受けてきたお役についてお断りさせていただいても、何も言われることがありませんし、天から「無理しすぎだぞ、少し休みなさい」というお告げだったととらえることじゃないかと思います。この4年、最中で「悔しい」と思うことをいくつか経験しました。でも、その悔しさもかなり和らいできたような。当初、全く運転を許さなかった妻が、最近はそれなりに許してくれるようになったり、数多く出かけるようになったからでしょう。外出先で、階段の多さというのは気になるのですが、以前と比べようもないくらい慎重に階段を踏みしめて上り下りをしています。周囲からは、できる範囲で動いてもらえばいいからという感じに思われているでしょう。書面仕事などは、手伝いを頼むことが多くなりました。できれば一人でやりたいという考えで今までやってきたのを、根本的に考え直す必要に迫られました。今まで時間に追われてやってきた仕事をもう少しゆっくり時間にゆとりを持たせてするようにしました。折しも働き方改革と言われている時代ですので、そういうこともありなのではないかと思えました。 先日9月8日、定期的に受診している脳のMRI検査を受診しました。「特段の異常事項もなく推移しているので、安心していいよ」と主治医に言われて胸をなでおろしました。それにしても、岐阜大学病院は、毎年のように変化がありますね。全くとどまるところ知らないという感じです。MRIは、皆さん受診していない人も多かろうと思いますが、検査台に寝ころんで身体を固定されて、しかも頭上を覆われるので非常に閉塞感のあるのです。しかも、非常に騒々しい音が発生するため、大変不快なのです。その騒々しい音が低減されると一番いのですが、そこはヘッドフォンでの遮音効果の向上を期待したいですね。あるいは耳栓をしても構わなかったのでしょうか。閉塞感を緩和するために、今年からは気持ちをほぐすようなアニメーションがあおむけで観られるようになっていました。よりリラックスしやすいように変わっていますね。受付システムも変わっていますね。当たり前のようにキャッシュレスで決済できます。ちょっとアナログなのは、駐車場でしょうか。100円徴収する程度ならば、無料でもいいのではないでしょうか?欲を言えばきりがないのですが、前よりは使いやすくバージョンアップしていると思います。何よりきれいなのがいいですね。「清潔」だというのは、医療機関の評判では大事なことだと思わされました。毎年1回の診察、どうしますか?と主治医に聞かれましたが、あと1年でちょうど5年という区切りにもなるので、「来年はお願いします」と答えました。先生も、さほど私と年齢は変わりません。「お互いに元気でまた来年」が合言葉になっています。
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東京の大学志望するならば都心の大学がいいのか?
私がまず身近に感じた大都市というと「東京」。大学が東京であったからです。東京の私立大学などクラスメイトはほとんど志望しませんので、異端児扱いされました。私大文系というだけで、批判されるような進路指導であったのですが、きちんとした理由はありましたよ。公認会計士の数多く輩出している大学を受験して合格したまでなのです。慶應義塾大学、早稲田大学はレベルが高く及びませんでしたが、ほぼ志望通りの大学に通うことができました。当時記憶に残ったのは、赤い色のやや古い地下鉄車両「丸の内線」。昭和の香り漂う(当時昭和62年でしたが)早稲田大学までいく「都電荒川線」や西新宿の駅近くにあるカウンター越しで食べる飲食店街。本当にアナログな時代であったなあと思います。当時まだコンパクトディスクは十分に普及しているとはいえず、上京した春にCDラジカセを秋葉原で購入した記憶があります。当時は6万円以上する高価なものでした。どちらかというと洗練されてきれいというよりも、まだ古さの残る東京都心部というイメージでした。そして大学近くの京王線「聖蹟桜ヶ丘」駅や「多摩センター」駅は、どちらも明るく新しく洗練されたイメージで、新しい生活が始まるなあというわくわく感を与えてくれました。今現在は、都心部の大学がもてはやされるのですが、私の大学時代だと八王子の大学が避けられるという雰囲気ではなかったと思います。それか、自分にはそんなマイナスの情報が目に飛び込んでこなかったのかもしれません。東京23区より離れた多摩地方は、自然にも恵まれていて、東京を意識しない地区であったのです。それが田舎者の私にはちょうど良かったと思えたのかもしれません。 そんな郊外の大学であるので、自然と卒業してから足が遠のいてしまっています。卒業してから、東京へは何度も行きますが、新宿から1時間近くもかかる出身校にはいく気がしません。さほど大学には用はないとは思いますが、普段は解放されている大学なので、立ち寄りやすいのであれば、気軽によるのですけどね。研修会などは、ほとんどが山手線の中の地域で行われるため、ついでに行くということにはならないのです。 確かに、アルバイトもできた、大学時代の友人と遊ぶのも楽しかった、クラブ活動も充実していました。そのほとんどが「大学内部」のもので、大学で完結してしまうことが多かったように思います。そして、広がりという面では欠けていたのかもしれないなあと。都心部の大学であれば、より社会人と話せるチャンスはあったかもしれないなあと。もう一度やり直せるとしたら、山手線内にある大学に行けたらなあとは思います。そうですね、一般的に思われているように都心の大学が良いというのは当たっているではないかと思います。そういえば、多摩地区の場合はアルバイトできても、いろんな職種を体験できるというわけではなかったと思います。圧倒的に求人件数も少なかったですしね。
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銚子電鉄に学ぶ事業再生方法
8月18日、経営計画策定のためのソフトウエア制作販売のMAP経営による研修会があったので、参加してきました。参加した理由は、千葉県銚子市にある「銚子電気鉄道」の代表取締役社長が、その企業立て直しに奮闘されたお話が聞きたかったからであります。さらに、社長が開業税理士でもあるとのことで、興味深く思ったからでです。 千葉県銚子市というと、千葉県の東の外れの漁業の街というイメージですよね。人口もさほど多くないのでは、さぞかし経営も苦しいだろうということが、想像できますよね。市の人口は、ピーク時から3割減少し、5万6千ということでした。こちらのほうでいう「樽見鉄道」「養老鉄道」のようなローカル線を思い浮かべましたが、それよりもさらにローカル路線である銚子電鉄線です。わずかに6キロ強の路線長のところを20分かけて走る遅さです。ですから、平均速度は時速20キロにも満たないのです。それは、車両の性能が十分ではなく最高速度時速40キロに制限されているからということです。 会社の歴史では、「親会社京成電鉄から切り離されたのち、土建屋の子会社になり、その土建屋が倒産して境地に陥り、さらに悪いことに、社長の会社財産横領が発覚、各種補助金が受けられなくなるという」ように苦難の連続があった鉄道でありました。 あまりにも経営状況が悪いローカル鉄道なので、鉄道の車掌は、「車内販売」もやり、切符の販売、改札までと幅広く仕事をやっていたようです。醤油作りがさかんな土地柄に目を付けた同社の専務が発案して「ぬれ煎餅」の製造販売を考えられたのです。試行錯誤の末、出来上がった煎餅を必死になって売り込み、鉄道事業以上の売上が上がるようになったというのです。今では、銚子電鉄は、鉄道事業会社としてというよりも、「ぬれ煎餅」を製造販売する会社として有名になっているとのことです。この研修の際、この「煎餅」が講演者より配布されていました。普通の煎餅と違い、固くないので食べる時に大きな音が出ませんので、講演中にも食べている受講者もいました。実にこれがおいしい。ちょうどいい味付け加減なのです。個包装になっているので、分けて食べやすいのもメリットでしょう。パッケージに「銚子電鉄」の文字も見られます。普通にお菓子屋さんの煎餅の味で、表記がなければ、鉄道会社が作っているなんて気が付かないでしょう。 また講演の最中も、大いに「笑い」をとられた社長さん。銚子にある調子のよい鉄道みたいなふうで、「合格祈願お守り」も出したり「お化け屋敷電車」のような催しをやったり、常日頃から目立つお調子者的な(失礼)企業行動をされているなあと。もちろん、鉄道は安全第一でしょうけどね。 現状が良くない状況であったら、改善しなければなりません。不利な環境下、いかにそれに対処していくのか、それをあきらめずに少しずつでもいい、前を向いて改善していこうという姿勢を持ち、行動を起こしていくことが大切だと思います。 経営者は、現在の会社が置かれている状況を「正確に」「タイムリー」に把握せねばなりません。そのお手伝いを私たちはしています。将来的な目標を皆さんはお持ちでしょう。その目標を達成するためには、どのような施策が必要なのでしょうか。
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京セラドーム大阪に行ってきました
先月は、バンテリンドームに行ったというタイトルをあげましたが、今度は大阪の京セラドームへ行きました。 このドーム球場は、パリーグのチームであるオリックスバファローズの本拠地。どちらかというと今までは不人気であったのもあり、 今まで行ったことはなく、今回初めて行きました。調べると開場からは26年ほど経過しているとのことでしたので、ほぼバンテリンドームナゴヤと同じ時期にできているようです。ですが、この二つの球場は外観が随分異なっていますし、交通事情の良さが圧倒的に違ってきます。外観は、いい意味では近未来的な外観を持つ京セラドームが大変個性的であると思います。あと交通事情ですが、京セラドームは圧倒的に便利です。地下鉄の出口を出るとすぐにドームがそびえているという感覚ですし、大阪環状線の大正駅からは「徒歩」でも10分はかからないし、沿道がにぎやかでちょっと入っていこうかなというお店もあります。さらに良いのが、歩道も十分確保されていて、ガードマンも配置されて交通整理をしているのが好感をもてました。 行きは、新大阪から大阪まで出て環状線というルートを通り、帰りは、ドームから近い「ドーム前千代崎」駅より地下鉄で心斎橋にて御堂筋線に乗り換えるというルートで新大阪まで行きましたが、いずれもストレスのない移動時間であったと思いました。 京セラドームの建物自体は非常に目立つので迷うことはありません。ドームにたどり着くまではほとんどストレスがありませんでした。 ところが、身体の不自由な身からすると、客席の勾配がきつくて、何度も階段をのぼりおりするのはためらわれました。決して広くない通路でありますし。 さらに、どこでもそうですが、通路側の席ならばいいのですが、通路から離れた席だと、身動きがしづらいのです。前の席との間隔にも余裕がないこともありますしね。結局、試合開始から延長にもなった試合でしたので10回まで、席を立ちませんでした。とても良い試合ではあったからでもありますが。 勾配がきついという観客席は、前の席に座る人が視界の邪魔にならないという良い点もありますのでね。 球場内のスコアボードなどを映し出す大画面では、選手の動画が、登場曲にシンクロして流されるなど面白い工夫がありましたね。あとプチプチデーと銘打って開催されたゲームでしたが、スポンサーが緩衝材、梱包資材を製造する会社さんということでしたが、社長が始球式に登場したり、配布されたミニうちわにも宣伝があったりと、プロ野球は数多くのファンにも支えられているから、企業宣伝の場にはうってつけなのであるということが実感できました。 印象に残ったのは、京セラドームのアクセスの良さ、行きやすさでした。東京ドーム並みのアクセスの良さだと思います。さすが、二大都市の大阪市。交通の便はばっちりですね。
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大盛況の屋台村:いびがわ花火にて
4年ぶりに大々的に開催された花火大会。やはり人々の4年の思いが詰まった瞬間だったのでしょう。揖斐川町役場の駐車場には非常に多くの人が集まり、大賑わいという感じでした。ビールを持って飲みながら祭りを楽しむ人が多かったように感じます。例によって、アスファルトの上は大変暑くより飲みたくなる雰囲気だったのです。マスクをしながら楽しむ方も少なからずおられたので、そこを除けばおおよそ4年前に戻りましたね。この瞬間が来るのをどれほど待ったのでしょうか。この間の変化とすると、キッチンカーが完全に市民権を得たこと。主催者としても、テントや電気の用意が必要ないので、出店料を安く設定していました。 揖斐川町商工会からの栄町・前島支部で催事をやってもらえないかというお願いをされ、支部の執行部の方より、催事開催の打診があり、催事実施の決定が行われました。長らく支部では「金魚つり」を催事として行ってきたのです。しかし、余ってしまった金魚の処分問題、暑い夏で、水温の上がる中での生き物の管理の難しさという問題、金魚調達が年々難しくなっている問題がありました。金魚の処分ですが、残った金魚を大量に近郊の川に流すことは、生態系に影響を及ぼすものでもあり、金魚がかわいそうであるとも思われます。熱い水になってしまうことを防ぐ手立てとして、氷を調達して、水の中に随時投入するということを行っていました。金魚の調達については、調達のために往復2時間程度動いていたのです。伊勢湾近くの弥冨まで車で仕入れに行っていました。決して、店が、金魚を届けてくれていたわけではないのです。かといって、金魚をつったあと、金魚を持って帰りたくないという方も数多くおられて、それもまた困るのですよね。金魚をいじめているだけって感じになりませんか。 支部執行部の方より提案されたのは、「風船ヨーヨーつり」「スーパーボールつり」。従来から持っていた水槽などを利用した夏の縁日によくあるお遊びでした。全会一致で、金魚つりから変えることが決定されました。当日の準備が2時間半程度で、開店となったのが、午後4時30分頃。非常に多くの方々に喜んで遊んでいただいたと思います。小学校未満向きの遊びが少なかったためか、長蛇の列ができて、風船は用意していた200個が早々となくなり、スーパーボール、小さいおもちゃなどもあっという間につられて、大勢の子供たちの手に渡っていきました。花火が始まる午後7時半頃には、スーパーボールも全くなくなってしまい、大盛況のうちに終了してしまいました。ここまで人気とはねえ、コロナで自粛されてきた縁日のようなにぎやかさを子供に体感させたいという親さんが多かったのではないでしょうか。さほど大きなトラブルもなく、親子のはしゃぐ姿を見て、夏の夜は、やはりこんなイベントがないとなあという気持ちになりました。イベントが元に戻って本当に良かったと多くの人が感じていると思います。 商工会の支部の役員は、3年ごとの交代で、今年は3年目の最後の年でした。3年間、結局何ら活動しなかったという風にならずに済みました。金魚すくいもでも同じように列ができ、次から次に、小銭の受け渡しを行ってという嬉しい悲鳴でした。決して営利が目的ではなく、イベントに来場された方にいい思い出となればという気持ちで私は、役をできる範囲でやらせていただきましたが、いつもは、見られないくらい数多くの幼児、児童の喜ぶ顔が見られ、悔しそうな顔が見られてよかったと思いました。意外に揖斐にも子供がいるもんじゃないですか!とも思えたのですが、実際来ているのは、揖斐川町在住ではなくて、「揖斐川町」に縁故のある子どもたちも含まれているるのでしょう。でも、そんなことはいいんです、揖斐に良い思いを持ってもらえたら、揖斐で良い思い出を作ってもらえたら。