コラム

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思い出をデジタルに
*上の写真、私の幼児期です。カラーはまだ少ない時期です。父と祖母と母に囲まれ、自宅の庭で撮影したものです。(掲載にあたり解像度をさげています) 私は、昭和43年生まれで、生まれてから今まで50年以上が経過しています。さすがに、幼児期の頃の写真は、色あせています。小さい頃の写真は、まだ白黒写真も多くて、大学時代についても白黒写真があったりします。「写真」の精細は向上していっていることが分かります。長男が生まれた平成11年でもまだ、デジタル写真は比率が低く、フィルムをキタムラカメラなどに持って行って、現像していたのを思い出します。さほど焼き増しなどしないネガの置き場に困ったりしましたね。結局、ほとんどすぐに捨ててしまっていたように思います。「フィルム」「ネガ」はいつの間にか見かけることがなくなってしまいました。 平成20年代になると、デジタルカメラが当たり前になり、次いでスマートフォンで十分に美しい写真が簡単に撮れて、すぐさまみられることができるようになりました。写真をネット上に公開するのがとても身近になっていきました。 写真のデータがデジタル化されると、あまり写りが良くない写真はプリントしない、消去したりすることもできて便利になりましたね。 厚いアルバムに貼られた思い出たち。もっとコンパクトに収納したい、できるだけもう劣化させたりしたくないと思い、思い出をデジタル化することを決意し、準備して送付したのが昨年の9月。ようやくこの4月になって、納品されてきました。「節目写真館」で、14000円ほどかかりましたが、色の補正もしていただいていて、思い出が鮮やかによみがえる感じになります。私が生まれた時から大学卒業までの思い出、自分の歩いてきた道をたまに辿ってみるのもいいことだと思いませんか。両親への感謝の思いがわき、祖父母との思い出もよみがえってくるように思います。
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私の趣味 クラシック音楽③高校時代より合唱の世界へ
中学では、吹奏楽部でトロンボーンを吹いていましたが、残念なことに進学した大垣東高校には吹奏楽部がありませんでした。吹奏楽部があれば、入っていたことであろうと思います。代わりにハンドボール部に所属しましたが、中学三年間にスポーツ系部活に属さずにきたため、他の部員との差が厳しく、場違いと感じ、3ヶ月ほどでやめることになってしまいました。吹奏楽部に近いというと合唱をやる音楽部が存在していましたが、男子部員が1人だけで、入部するのを躊躇っていました。 ところが、同じクラスで、音楽部を希望していた男子がいるということを知り、その彼と中途で入部することになりました。 その後、中学で吹奏楽部をやっていた同級生2人を加えて、男子のコアなメンバーとなりました。他に美術部から臨時部員として入ってもらったり、新1年を女子部員が臨時部員を勧誘してきたりして、2年の時は、なんとか音楽部は女声合唱から混声合唱になることができました。コンクールの課題曲(選択曲)と自由曲を特に専門的な先生が来て指導されるのではなく、時々OBの方が指導に来て指導されるというように運営されていました。そして、本番は生徒の指揮で出場していました。 そんな中、後輩で吹奏楽部に所属していた人たちと一緒になって、東高にも吹奏楽部を設置してほしいということで、運動をしました。残念ながら、実現できずに解散させられてしまいました。無謀なことをやったものだと思うのですが、その頃は、まじめに、「仲間はそれなりに集まった、吹奏楽部を設立させるぞ」という意気込みではあったのですが、先生方に全く取り上げてもらえなかったのです。 結局、指揮をやっていた3年の先輩が退部し、私が指揮者をやることになりました。それなりに中学から指揮をやっていたので自信はあったのですが、前の先輩たちと比較されて違うということで、色々と言われたり、こちらの言っていることを聞いてもらえなかったり、懸命に合唱やるという姿勢に部員を引っ張ることができなかったのでした。NHKのコンクールと全国合唱連盟のコンクールに出場したのですが、順位が公表される大会では、中位ほどだったと思います。 3年になると、3年男子部員が退部したので、女声合唱にまた戻ってしまったのです。なぜ自分は退部しなかったのか記憶していないのですが、私はそのまま部活動を続けていました。引き続き指揮者として。特に誰に習うのでもなくという感じで、中学での吹奏楽部での経験をベースにして3年の半年ほど続けていました。よくやっていたなあと思います。先生や両親から部活動やめたらとは当時言われた記憶はありません。よく続けさせてもらえたものです。 コンクールで演奏したのは、2年の時は、いずれも日本語合唱曲3曲。3年の時に、連盟のコンクールでラテン語で演奏する宗教音楽を演奏しました。ラテン語での歌唱は、これが初めてでした。順位は、2年の時よりも上がったと思うのですが、部員の熱が上がっていかないので、不完全燃焼であったように思います。まるでやり切った感じはしなかったのです。 大垣東高校の音楽部は、伝統的にカリスマ的な指揮者が出ていたので、コンクールでも優秀な成績でした。私は、全く足元に及ばなかったのでしょう。中学時代は、吹奏楽部にいても、歌えない部員ではいけないという顧問の先生の考えから、よく合唱もやったものでした。だから、合唱も大好きで思い切って歌っていました。その時の顧問の指導を生かした指揮をしていたのです。いずれにせよ、ステージでみんなで歌った経験よりも、前に出て、指揮をしていたのがほとんどであった高校生時代であったと思います。
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経営者の身近なパートナー‘税理士’
わが事務所が、今年2022年に創立50周年を迎えたということで、長年お世話になっているお客様、取引先様には厚く御礼申し上げます。 現在の代表者である私、国枝宗徳が当事務所のお客様と初めてお仕事でお会いしたのが、2002年4月のことでちょうど20年が経過したことになります。ですから、まだ事務所の歴史の半分にも満たないことになります。 実は、この私でも、事務所の歴史の半分も知らないということであり、50年の長期間、事務所を継続できていることに対して創業者の先代国枝隆に敬意を表するとともに、これまで支えていただいてきた従業員の皆さん、幹部の皆さんに深く感謝しています。 当事務所は、税理士業務である会計業務、税務業務を基幹業務としてお客様にサービスを提供してきていますが、お客様からのニーズは幅広く、税務会計に限られるものではありません。資金繰り対策、助成金や補助金に関するニーズ、人財に関する問題、組織の意思決定にかかわる問題、社会保険に関する問題、事業承継に関する相談、業者の紹介依頼、受注先紹介の依頼など多岐にわたります。 このことは、私どもの税理士事務所は、経営者から「企業経営全般」について身近で気軽に相談できるところであると認識されているからではないかと思っています。それが、税理士事務所の強みでもあるのと思います。私自身では、そのように経営者から頼っていただけることを生きがい、仕事のやりがいであるととらえてやってきました。そして、できる限りお客様の期待に応えようという気持ちで職務遂行してきました。今後、私は70歳までは第一線で仕事をしていくつもりでいますが、その姿勢はまったく変えません。 50周年を機会に事務所名を「けやきパートナーズ」と変更しましたが、改めてスタッフ一人一人がお客様と共に走る伴走型支援をできるかを問い直してまいります。全スタッフが、お客様の真のパートナーになるよう切磋琢磨していきます。40年以上の長きにわたるお取引があるお客様で大きく成長された会社でも、経営者が世代交代されています。お客様のそのような歴史をともに喜べるのも私どもの税理士の良いところだと思っています。「経営に悩んだら、まずはけやきパートナーズ」とどのお客様にも思っていただける存在になるように努力していきます。
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ビジネス用語に思う
リソース,アサイン,アジェンダ,バッファ,コミットメント…これらのような「ビジネス用語」と呼ばれるものは年々増えているように感じます。この2,3年の間に耳にする機会が増えたビジネス用語といえば「エビデンス」が挙げられます。税務関係のセミナーや書籍を見れば「エビデンスの整え方」といったキャッチコピーを目にします。「エビデンス」は直訳すれば「証拠」になるのですが,「痕跡」や「物証」,「メモ書き」のようなものも含めた広い意味として,わざわざ使われているようです。 さて私にとっては大変馴染みがある「借方」「貸方」という簿記用語。英語の「debit-side」「credit-side」の日本語訳ですが,これを考えたのは偉大なる翻訳家とも称される福沢諭吉です。幕末から明治期にかけて福沢諭吉や西周を筆頭に,たくさんの外来語が日本語に訳されたのですが,その言葉には次のようなものがあります。 「individual」…個人 「philosophy」…哲学 「science」…科学 「time」…時間 「century」…世紀 「right」…権利 このような外来語に接するのは当時の選りすぐりの秀才達であり,彼らが初めて出会った概念を日本語にするための工夫や苦労,教養の深さは言うまでもありません。ところが近年は外来語をそのままカタカナに置き換えて使われることが多く,初めて耳にしたときには違和感を覚えるのは私だけではないはずです。もちろん情報伝達のスピードは明治期と現代ではまるで違っており,いちいち日本語に定義して周知する時間すらないことは理解できます。しかしながら明治期の偉人たちが現代にいたら,このような状況をどう見るのかと考えずにはいられません。 現代における外来語の翻訳語について、国立国語研究所の山田貞雄氏はこのように述べておられます。 『現代日本語において,分かりにくい外来語を言い換えたり,別語を言い添えたりして,上手に外来語を使ってゆこうとするのと,新造の訳語を案出して新規の概念や知識を定着させようとするのとでは,その目的や意識が異なります。既に日常の言語生活に流入・氾濫・混乱している外来語に対応するのと,新規に専門用語や新しい概念の輸入を積極的に意図的に行ったのとでは,おのずから方策も異なるべきと言えます。』 https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-96/ 既に日常の言語生活に流入している外来語,例えば「スマートフォン」という外来語に対して,日本中のほとんどの人が何を意味しているのか理解できるでしょう。今さらこの言葉を日本語で再定義をする必要はありません。ビジネス用語は「なぜその言葉を使うのか」という前提が周知されているからこそ,会話の効率性や伝わりやすさが発揮されるはずです。話す相手や状況に応じた言葉選び,話し方を意識しなければならないと感じます。 監査1課 森山傑
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代表国枝の趣味 クラシック音楽②中学生時代
小学校の6年生に少年野球に入ったものの、試合にも出してもらえず悔しい思いをしていました。自分はスポーツには向いていないことがわかっていました。 また、当時は宇宙戦艦ヤマトのサウンドトラックをよく聴いていた思い出があり、歌を歌うのも好きで、ピンクレディの『UFO』とか『サウスポー』なども教室の中で歌っていたような気がします。中学に入る前に聴いた揖斐川中学吹奏楽部の定期演奏会で、自分が入るのは吹奏楽部だと自覚したと思います。 中学に入ってすぐに部活見学に行ったときに、ちょうど中学近くに揖斐川の河川敷があり、そちらで花見をしながらの練習でありました。先輩よりトランペットのマウスピースを渡されて、ブーブーと吹きました。当然ながら、うまく音が出せません。これで務まるのだろうかと不安になりながら時を過ごしました。しばらく経つと、トランペットからパート分けが始まり男子7名が各金管楽器に振り分けられました。私は、カッコいいと希望していたトロンボーンの担当になりました。何度もスライドが手から離れてしまってスライドを床に落として楽器の管をへこませてしまっていました。1年生の時は、訳がわからないうちに、コンクールに出していただいたように思います。当時のコンクールでの演奏曲は、櫛田作曲の東北地方民謡によるコラージュ、吹奏楽のための飛鳥といった和のサウンドがメインで、私が吹くトロンボーンパートは、地味な役回り、同じ音を長く伸ばす場面が多かったように思います。 当時の揖斐川中学吹奏楽部は、顧問の矢橋文夫先生、「鬼の矢橋」と言われるほど怖かった記憶があります。暑い音楽室の中で繰り返され延々と続くチューニング、妥協を許さぬ音作りに、辛さはあったものの惜しくも東海大会行きを逃す県大会金賞受賞につながりました。コンクール会場は、各務原市民会館で、二階席はステージを見下ろすように聳え、舞台袖でとても緊張した覚えがあります。 2年生になると、トロンボーンの活躍機会が多いゾルタン・コダーイ作曲のハーリ・ヤーノシュ。大変吹きごたえのある曲であった。もとは管弦楽曲であるので、吹奏楽への編曲版で、一部抜粋してのコンクール演奏。またしても県大会金賞で、もう少しのところで東海地区大会行きを逃しました。当時は、穂積中学と泉中学が「東海大会行ききっぷ」をずっと手にしていて、特にご近所である穂積中学にはライバル心がありました。 とはいえ、スポーツとは違い、音楽では相手を打ち負かすというものではないので、ひたすら自分たちが、美しい音で、技術力、正確さを磨いていく他にありませんでした。合奏コンクールの他にも、アンサンブル・コンテストで県大会に行ける栄誉もあり、朝から下校時刻まで音楽室等で、のめり込んでよく練習したものです。 3年の時は、さらにソロコンテストで県大会金賞(金は第1位という意味ではありません。優秀グループという意味です)を受賞。この時の表彰の際に会場で衝撃的な出来事がありました。銀賞になったある生徒が、舞台袖で表彰状を破って捨てるという行為に及んだのです。その破り捨てられた賞状を目の前に、私は呆然とした記憶が今でも残っています。 そして最後の夏のコンクール。その年から予選があり、予選は難なく通過し、岐阜県大会は岐阜市民会館で行われました。顧問の先生のミスなのかよくわからないですが、決められた演奏者数の制限を超えて演奏したということで、揖斐川中学は、選外になってしまいました。しかし、全出場校中、審査員の点数は、最も採点が高かったようで、それが慰みであり誇りでした。演奏曲は、オットリーノ・レスピーギ作曲「ローマの祭り」、金管楽器が華やかな色彩感豊かさがうりの名曲。音が大きい私のトロンボーンは目立っていたようでした。 楽器ばかりでなく、指揮者としても定期演奏会で振らせていただいたのも思い出に残ります。指揮した中で、E.T.の音楽が大半のジョン・ウィリアムズの音楽メドレーがありました。彼の音楽というと、スター・ウオーズなどの名曲の数々がありますが、今でも、生きておられて、名門オーケストラを指揮する姿を見ると、とても嬉しくなります。映画音楽もクラシック音楽と並んで好きなジャンルであります。 この数年で観た映画でいうと、「君の名は。」の挿入歌、全てが名曲であり、ラドウィンプスのボーカルの透き通った声はいつ聴いても好きだなあと思えます。さて、何度聴いたやら。洋画であるなら、「ララランド」。全編に美しく流れる音楽があり、時にピアノの切ないメロディあり、映画冒頭のリズミカルな音楽に合わせて、縦横に車の上でダンスするシーンなど元気付けられる曲もありで。 結局、中学時代には、吹奏楽の東海大会には行けずに終わり、ある高校から吹奏楽部からの誘いはあったものの、興味は持てず、吹奏楽部のない大垣東高校に進学したのでした。
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パワハラ防止法への対応を進めましょう
大企業ではすでに施行済みのパワーハラスメント(以下パワハラ)防止法の規制ですが、2022年4月より全企業において適用が義務化されます。パワハラ防止に向けての対応を進めていきましょう。 企業規模を拡大していく上で、従業員を雇用し、円滑に働いていただくということは不可欠です。そもそも、従業員と経営者層、上司と部下が上手に人間関係を築くべきなのは法律が制定されなくて当然の事ではあります。しかし、間近に施行が迫っている中、経営者がどんな対応が必要であるか、知っておくべきかと思います。 ここでは、主にパワハラとは、どのような行為のことを指すのかをお知らせします。パワハラの定義ですね、これが重要ですので、覚えておきましょう。 職場におけるパワハラとは、次の3つの要素を全て満たすものをいいます。 ①優越的な関係を背景とした言動であって ②職務上『必要かつ相当な範囲を超えたもの』により、 ③労働者の就業環境が害されるもの ということですから、業務上の必要性から口頭にて、書面にて強く注意するのはパワハラには全く該当するものではありませんから、必要以上に敏感にならなくて良いでしょう。労働者の中には、パワハラをあまりに広く捉えていると思える方もいらっしゃるようです。 実際にはどんな行為がパワハラに該当し、どんな行為がパワハラに該当しないのかを一通り確認しておくことが大事なのではないかと思います。
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2月6日にワクチン追加接種しました
1月から2月上旬にかけての新規コロナ感染者数の急増がようやく収まり、減少局面に入っていくのではないかと言われています。 年末にはほとんど感染者がいなかったのが、1ヶ月で様変わりしてしまいました。 そのような中、名古屋税理士会より2月の上旬にワクチン接種が可能になるように手配しましたという趣旨の案内が送られてきました。 1、2回目のワクチン接種での職域接種で対応ができなかったので早く対応していただけたのでしょうか、 おそらくベテラン税理士向けに早い時期にということだったのでしょう。 揖斐川町に問い合わせをしたところ、2回目の接種から8ヶ月経ってからの接種案内を行っているとのことでした。 そうすると、2回目の接種が7月27日の私は、ほぼ4月になってしまうということなのです。 それならばということで、両親にも声をかけて、私と3人で、接種の申し込みをしました。 場所は、名古屋市に隣接した豊明市にある藤田医科大学ということで、 そんな遠くに行かなくてもと妻は言っていましたが、感染者数が多い時期にかかった際のリスクを低減させたいという一心でした。 私は高血圧が原因で、脳出血入院という基礎疾患があります。 そのような人は、重症化しやすいとのことで、早めに追加接種をと考えました。 両親は、もちろん後期高齢者です。長男が、往復運転して連れていくからということで、2月6日に行くことにしました。 当日、揖斐川町は、車庫から出るのにも雪かきをしなければいけないほどの積雪。 ところが南に行けば行くほど雪はどんどんなくなり、名古屋市内の積雪は全くありませんでした。 最寄りのインターは積雪のため通行止めでしたが、渋滞もなくスムーズで、約1時間半ほどで到着しました。 両親からすると後部座席にゆったり座り、孫が運転して名古屋へというのは幸福感があったのではないかと思います。 さて、藤田医科大学でのワクチン接種。受付、予診ともあっという間に終わってしまいました。 会場に入って、そこまでは5分かからなかったのです。それに対して、接種待ち行列は20分くらいあったでしょうか。 前回接種が、真夏、今回は冬という違いで、厚着である分、捲り上げるのが面倒でしたね。 看護師が1名で対応していただけて、あっという間に終わりました。 針を刺すときにチクリとしたが、それ以降はほぼ痛みがなかったです。あれ?モデルナって楽じゃないとか思ったのです。 その後の副反応のことを言われるのですが、これは違いました。 ファイザーでの1度目、やや緊張したためか、ドキドキ感があり、筋肉痛が2日ほどありました。 ファイザー2度目は、ほとんど副反応がなかったです。楽でした。 さて、今回、次の日の月曜日から徐々に筋肉痛が始まり、腕に熱を感じる状態になり、ようやく金曜に治まりました。 個人差があると思うものの、副反応の長さ、痛みの程度と口コミの通りモデルナの方がきつかったというのが私の体験したところでした。 とはいえ、全く仕事への影響はありませんでした。名古屋税理士会で、職域接種を企画運営していただいた方に感謝ですね。
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本日、当事務所は創業50周年を迎えます。
平素は格別のご高配を賜り、厚く御礼申し上げます。 おかげさまで弊社は2022年2月で創業50周年を迎えることができました。 これもひとえに皆さまのお陰と深く感謝しております。 これからも地域応援企業として地元中小企業の社長様の良きパートナーとして 経営をサポートする存在であり続け、皆さま企業の成長発展に貢献できますよう スタッフ一同精一杯励んでまいりたいと思います。 あわせて皆さまのご健康とご発展を心よりお祈り申し上げます。 引き続き変わらぬご支援を賜りますよう 何卒よろしくお願い申し上げます。 代表 国枝宗徳