コラム
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ステージ上からの風景 メサイアの余韻
2月12日の演奏会終了から4日間が経ちましたが、未だに余韻が残っています。その日以降、YouTubeにアップされているメサイアの動画を観て、振り返っています。あまりに長いので、全曲を聴くのが億劫であったのですが、一度ステージ上で聴いていると、すっと耳に入ってくるものです。また、より満足に歌えるように準備して本番を迎えようという意欲もわいてきたのでした。聴くだけでなくて、時には自分も参加して古典を味わうというのは、本当にいいものであります。学生時分の味わいとはまた違った感覚でした。ある方に歌ってみるように誘われて始めたのですが、全く初めてのジャンルに戸惑いもあり、覚えていくのも苦労したにですが、こんな経験をできるって、大袈裟かもしれませんが「生きている幸せを実感できる」ひとときでした。 観客とは違った角度から演奏会を聴いて観る立場でもあったのですが、最後の曲の終わいった時の地鳴りのような拍手の嵐に今回の演奏会が多くの徴収の胸を打ったことが想像できました。これは、今までステージ上で体験したことがないような拍手でした。まさに、拍手をする瞬間を待ちわびていたかのような観客であったのが分かりました。きっと揖斐川町で小オーケストラ付きの大規模な合唱が付いた作品が演奏会が開催されるのは久しぶりであったことでしょう。観客にとってもコロナの厳しい行動制限が緩和されつつある喜びを重ね合わせていた方もあるのではないでしょうか。もちろん、合唱団側の多くも、久々の演奏会に胸躍らせていた人も多かったように思います。何と言いましょうか、コロナ時代の終焉を祝うかのような喜び、感動を共有した瞬間であったように思われました。 この日、私の両親と、妻、二男と鑑賞しに来てくれました。3時間近くにもわたる大曲なので、退屈にならなかったか、腰が痛くならなかったのか両親に聞いて観たのですが、「退屈にはならないよ。良かった、もう一度聴きたい」のような感想が返ってきました。ほかの方からも高評価であったようなことを聞かされました。妻からは、あなたの身体が心配で、他の方に迷惑かけはしないかとハラハラしながら見たと。来てくれとは言わなかったのですが、来てくれました。 そうなんです。私は、左半身に麻痺を抱える障害を持ちます。そんな中、指揮の青木先生はじめ周りの団員さん、裏方さんにも配慮いただきました。当日の楽譜を手で持つことなく譜面台に置かせていただき、無事に終演を迎えられました。感謝感激が続くこの1週間です。
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合唱メンバーとして久々にステージへ クラシック音楽万歳
2月12日(日)、約1年前から毎週のように練習をしてきたヘンデル作曲の「メサイア」の演奏会の本番でした。 私にとっては、左半身麻痺となってから初めてのステージでした。練習の時より、よく使わせていただいた揖斐川町地域交流センターはなももの大ホールです。このホール、客として何回か来ていますが、大きすぎず小さくもないサイズ。客席数800程度の収容人数で、非常に音響が良いホールであり、比較的設備も新しく、客席も座る心地の良いものが使われていて、揖斐川町のような田舎でこんなに良いホールがあるのか!と驚かれます。地域交流センター、事務所からは目と鼻の先であり、歩いてもすぐです。十二分に広い駐車場が備わっているので、もっと稼働率が上がるといいのになあと感じます。 合唱というとどうしても女性がやっているイメージではないでしょうか。今回のメサイアを歌った合唱団も例にもれず、女性は60人以上集まるのに、男性は10人に満たずで、いくら経験者が揃っているとはいえ、きついので若手プロの歌手に応援をいただきました。1人当たりの負担が大きいのですよね。メサイアは、合唱部分でいくと40分以上はありますから体力が必要なのです。 私は、メサイアを歌った経験は今回が初めてですが、合唱経験者である私でも、なかなか手ごわい曲ではありました。残念ながら、完全には歌えてはいません。メサイアは、何度も歌う人がベートーヴェン第九のように多いと聞きます。というのは何度も歌っても新たに発見があるということだと感じます。揖斐川町では、3度目のメサイアであると言います。メサイアが作曲されたのは、18世紀といいますので、300年前の曲が、今もなお歌い継がれているというのは、それほどまでにその音楽、構成力が多くの人から評価されているからであろうと思います。全曲通すと2時間半程度もかかる大曲。正直言って、よほどのクラシック音楽好きでも、つらくて途中挫折することもあり得ると思えます。音楽だけで、救世主キリストの一生を描いてしまうという途方もないことをやり遂げたヘンデルは、大天才と言わざるを得ないと思います。 それとともに、今回指揮いただいた青木洋也氏の指揮、指導ぶりも素晴らしかったです。顔でもどのような音を出してほしいのか分かりますし、指導でも卓越した歌唱能力を披露されますし、次から次に繰り出される指摘は、的を射たものばかり。今回は、指揮だけでなくて、アルト歌手でも出演されるなど、彼もやはり天才なのではないかといつも思わされます。 100人程度がステージで演奏し、それを約600人程度に聴いていただけたのではないかと思いますが、やはり聴衆がいるのといないのでは、違いますね。合唱団メンバーが主に集客したのでしょうけれど、空席が目立つ客席を前にして演奏することほど寂しいことはないものです。聴衆が多いと、それなりにプレッシャーを感じるものですが、それがまた心地よく、左半身麻痺の私が、よくも3時間近くもステージに居られたものだと正直、自分の頑張りに拍手という気持ちになりました。それとともに、約1年間苦心したこの大曲との別れかなあと感慨深いものがあり、最後の「アーメン」では、涙がこぼれ落ちそうになりました。コロナ禍で、いろんな演奏会で、「ブラボー」がなくなっていたのが、今日は久しぶりに「ブラボー」を聞いたなあと。その一員で微力ながらいれたのは、幸せなことであるなあと思ったのでした。
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郵便番号7ケタ25周年
今となっては当たり前になった郵便番号7ケタ。以前は、5ケタであったのを知らない若者もいることでしょう。郵便番号7ケタになることで、「郵便番号辞書」ができました。郵便番号が正しく入力されていれば、正しく住所が変換されるようになり入力の効率化に役立っています。今となっては、住所を記入すれば郵便番号も自動で検索されるということもあると思います。 当時は、なんだ2ケタも増えて面倒だなあと思ったものです。2ケタ書くのに枠の書かれたシールも貼ってました。住所から検索するために郵便番号簿が5ケタの時よりもずっと厚くなりました。以前は、あったものに「郵便番号簿」というのがあったのを思い出します。今も残っており、無料で配られるようですが、一般的には使いませんよね。普通は、インターネットで番号検索をするのではないでしょうか。いまだに、「電話番号案内」というサービスはあるのでしょうけれど、これも使われずにインターネットで検索してしまいますね。インターネットは、最初にパソコンによって関りがありました。ところが今やスマホでほとんどの人がインターネット検索を利用しています。そりゃ、スマホで調べるのが便利ですよね。 さて、郵便番号が7ケタ化されたのは、いつでしょうか?実は2月2日から。25年前の1998年(平成10年)です。 この1998年2月2日というのが、私にとってはとても大事な日なのです。この日、私は「婚姻届」を岐阜県本巣郡穂積町(現在瑞穂市)に届けました。その前日に大垣駅前にあったチサングランドホテルで、結婚式を挙式しましたのでよく覚えているのです。2月1日というと通常は、寒く雪も降るかもしれない時期です。それにもかかわらず、よく晴れ上がり、見事に雪の心配がなかった日であったことを覚えています。 はい、手前みそな話で恐縮ですが、銀婚をむかえました。男児3人授かり、昨年長男は就職し、3人ともに義務教育を終えて、2人は成人しました。日が経つのは早いものです、どんどん子供たちは成長し、親から離れていくのですが、それが大変頼もしく、楽しみな毎日を送っています。今日節分の日。大学生の二男は春休み中なので、事務所の手伝いをさせています。穂積のお客様のところまで送迎してくれました。揖斐穂積間往復1時間あるので、その時間運転しなくてもいいというのは、身体的な負担が少なくてありがたいことです。 これから日が長くなる季節。厳しい寒さも徐々に和らいでいく時期です。「冬来たりなば春遠からじ」を実感させられる日々になりました。
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税務署と税理士の関係について思うこと
昨年のこと、税務署と税理士会が懇親会をやって、税務署側の幹部が女性税理士にセクハラ行為をしたという記事が掲載されていました。 この記事に関して、その税務署幹部がとった行動については、非難に値し、セクハラ行為が根絶されるべきは当然のことであると感じたのであるが。「税理士と税務署が飲み会などしていてよいのか?」というその記事の読者の感想が掲載されていたので、それについての私の感想、意見を述べたいと思います。 まず、「税務署と税理士」の関係性について、どうあるべきか考えてみます。税務署は、納税者が、税法に照らし合わせて、適法に税務申告されているか、期限内に適切に納税されているのかチェックします。そして納税者が、違法な申告、納税をしているならば、「加算税、延滞税」というペナルティを科します。 税理士は、納税者が「適法にかつできる限り有利になるように税務申告納税できるようサポートする存在です」。複雑で変化の激しい税務に関する法令について、一般の納税者は、自身が誤って申告納税して損失を被りたくないと考えることでしょう。そのため、法人経営者や個人事業主などは、税理士または税理士法人に有償で税務に関して顧問となって「税務申告書の作成」を任せることが多いと思います。中小企業者は、税のことは、専門家に任せてその時間をご自身の事業繁栄に使っていただきたいと常に思います。 そうです。「税理士」と「税務署」の共通項。納税者が適正に申告納税できるように導く社会的責任を負っていることで共通しています。税金は、公平な制度であるべきです。税法に規定される法令が各納税者の公平であることは必要ですが、この話は別途させていただこうと思います。納税者が税法に則って申告納税をしていただくことにより、法律で規定された平等、公平が達成できるのであると思いますが、それをともに支えるのが「税務署」などの国税関係の官公庁、「税理士」そして税理士会員で構成される「税理士会」です。 納税者の便宜をともに図っていく税理士会と国税当局については、互いに連携を図り、税務行政が円滑に動くように協力していくという体制は、我が国で採用されている自身の納税額について自身で法に沿って計算して納税するという「申告納税制度」にとっては、望ましいことです。税理士会と国税当局は、時に意見交換会を行っていたり、税務署が税理士会の支部集会の席上で、「税務に関する税理士に対して理解いただきたいこと、依頼事項」が伝達されています。ただ単に、そのような「協議会」「口頭による通知」「挨拶」などだけで、両社が理解しあえるものでしょうか。 私は、あまり下戸でありますが、少ないながら飲酒したり、ともに同じものを食することにより、両者の「壁」が薄くなったり、なくなったりするのを感じます。厳しい追及をする調査官という顔から離れた税務署の幹部は、ほとんど人間的に素晴らしいと感じる方々ばかりだという印象を持ちました。そうなんです、懇談会、懇親会のような役割は大切だと思います。ですから、私は国税当局と税理士会の税理士が酒を酌み交わし親睦を通して、互いを分かり合うというのは、あってしかるべきということです。もちろん、公務員倫理法の観点から、両社の過度の癒着を排除するべきですので、国税の方々には相応の会費のご負担をいただいています。 私は、以前「名古屋税理士会」「税理士会大垣支部」の役員の任をさせていただきましたが、役員は、税理士の地位向上ということも関連はありますが、主に中小企業者である納税者の代弁者となって国税当局に要望を出しています。本当に社会的使命感をもって動かれる献身的な姿勢を持った役員さんが多いのです。役員を務めさせていただき、「税理士」である誇りと喜びを感じさせていただきました。残念ながら、この数年は身体的な障がいを抱えてしまったため、役員の責務を果たせないと感じ、辞退させていただいています。 税務署は、納税者にとっての一番身近な窓口です。最近の窓口対応も大変丁寧で良心的になっていると感じます。まさに「サービス業」のようです。納税者は、まずは国税庁のホームページで調べる⇒それでも分からないことは税務署に質問する⇒たくさん質問があったり、自分で手に負えない、時間をかけて教わりたいという場合は、税理士または税理士法人の事務所に問い合わせるとよいでしょう。 当事務所では、税務及び会計の専門家としてみなさまのお役に立ちたいと思っております。どうぞお気軽にお電話ください。長文ご容赦ください。
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年頭のご挨拶
あけましておめでとうございます。新春を皆様いかがお過ごしでしょうか。新たな年が皆様にとってうさぎが跳ぶごとく飛躍となるようにお祈り申し上げております。本年もよろしくお願いいたします。 令和元年12月本格的には2年3月より始まった新型コロナ感染症よりすでに3年近くの時が経過しました。3年前の4月、コロナ陽性者の数は非常に少なくこれで「緊急事態宣言」ってなぜなのか?自分はコロナにかかる気がしないとずっと思っていました。今現在12月21日でも、私と同居家族はコロナ感染した経験がありません(予防接種で、息子が後遺症に悩まされた程度)。ところが、事務所では11月後半からコロナの影響で休暇をとるものが出始めて、それが続出して、いよいよコロナが身近になってきました年末でありました。それとともに、サッカーワールドカップで、日本が強豪欧州2か国に勝つという「ドーハの歓喜」を日本国民が共有するという機会に恵まれました。ワールドカップの会場を見ると、もうマスクをしている観客は目立ちません。これが、日本でもスタンダードとなることを願ってやみません。 師走に、11月に公開された新海誠監督作品の3年ぶりの新作「すすめの戸締り」を家族4人で鑑賞しましたが、非常に素晴らしい作品であると思います。相変わらず美しい作画に目を奪われますが、今回はとりわけその物語性も良かったと思います。最近の3つの作品に共通するのが、「災害」を通してつながる絆、愛ということではないでしょうか。それとともに、いずれも「東京の街」が舞台として登場します。言わずと知れた日本の首都でありますが、地方分権が叫ばれてもいっこうに東京に人口集中は歯止めがかかりません。それほど東京の魅力は大きいということでしょう。その東京の基礎を作ったのは、徳川家康と言われています。政治の中心地を京都から当時は、辺境の地であった場所に移し、その土地に都市基盤を築きました。江戸幕府が、250年を超える間、倒されなかったのは、家康の地盤固めが大きかったのではないかと思います。 令和5年の大河ドラマの主人公は、「徳川家康」。家康を演じる松本潤さんの容姿、演技も注目かもしれません。しかし経営者であれば、「家康」の決断、生き方、考え方も学ぶところも多いと思います。なぜ家康が、戦国時代最後の勝利者になりえたのかを考えつつ観ることをお勧めします。おそらく、経営のヒントにもなることでしょう。 経営者は、「生き方」を学ぶとともに、たびたび申し上げているように「時代の潮流」=トレンドを読む力を養い、それに適応していくことが望まれます。そのためには、「観察力」も重要なことではないでしょうか。自分の観察力では十分とは言い切れないでしょう。であれば、他人の力を借りる、他の経営者と交流する、また従業員の意見に耳を傾けるということも必要です。最後に、やはり「商品力」です。選ばれる商品を創るために、経営者は何をすべきか真剣に考えねばなりません。
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鎌倉殿のフィナーレに感動!
すでに最終回から10日経ってしまいましたが、ようやく最終回をNHKオンデマンドで観ました。 この一年間、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を観るのが毎週の楽しみであったので、それがついに完結して、そのフィナーレが今までとの対比するとあまりに平和的でもあり胸に刺さるものでありました。主人公北条義時(小栗旬さん)の最後の描かれ方、戦場で華々しく死ぬとか、裏切られて切り付けられるとかではなく、血生臭さは少なめであったのが良かったのかなあと。役者さんは、年をほとんどとらないのに、ドラマの中では、徐々に年を重ねていく、その変化を衣裳、メイク、所作、セリフで変えていかなければならないというのは、生易しいことではないでしょう。三浦義村役の山本耕史さんは、最終回に「じいさん」とか言われていた三浦役と、実際とのギャップがあって46歳、年の割に若いなあと思いました。 このコラム及び事務所通信でも春に書いたことでしたが、三谷さんのドラマ作りはクスっと笑える部分と、真剣にこだわりをもって作られた部分のメリハリがついているのが面白いのですよね。最終回で、義時が妻に毒を盛られて、それを飲み続けて病となるというのですが、その毒は義時の永遠のライバルである義村から入手したというくだり、フィクションのようにも思えますが、その設定も面白いですね。その義村と酒を酌み交わす場面、あまりにも義村の行動は滑稽であるとともに、ライバルに対する嫉妬心が吐露され、「北条の引き立て役としての義村」という役回りであったことに帰着するように思えました。 結局は、源氏三代将軍を引き継ぎ北条の時代を作っていった北条義時がこのお話の中心ではあったのです。義時は、自身の子である坂口健太郎演じる泰時に政治の継承をさせようとしていきますが、その継承の際の気持ちですね、これが、セリフとなって現れます。「悪いことは、この身にかぶって」から死んでいこうと。よく先代経営者は、息子には過重な負担がかからぬように引き継がせたいと、また借金は自分で片づけてということを言われますが、それらを思い起こさせるものでした。(おそらく脚本三谷さんの創造の産物でしょう) 北条政子の弟、義時を思う気持ち。弟に晩節までも汚させまいとする母性的な心情。義時の最期をみとり、義時の生涯をほめたたえる小池栄子さんの迫真の演技に泣かされました。やはり、親が子を思う気持ち、兄弟の情に寄り添った物語にするところ、型通りではあるけれども、役者さんの名演もあり心を打たれます。 義時の後継である、泰時は「争いのない新しい世」を作るということをテーマに掲げ、親が歩んだ方向とは、違うものを求めていくのですが、経営は変化への対応業という言葉が想起されます。泰時の生きる時代は、義時の生きた時代とは違うのであるから、親とは違ったやり方をとするべきなのでしょう。それが、承継というもの、なかなか経営者は、自らの成功体験、経験から離れたことはしにくいもの、それを可能にするのが、「承継」ということかもしれません。「鎌倉」という体制を保守するという命題は、泰時も同じでしょうけれど。 最終回の冒頭に、来年の大河ドラマ主人公である徳川家康が登場してきました。彼が読んでいたのが「吾妻鏡」=鎌倉幕府が書かせた鎌倉幕府の公式歴史書でした。家康は、吾妻鏡を愛読していたとされますが、その歴史から何を家康が学んだのか。来年の「どうする家康」も、また楽しみたいと思います。
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やはり積もったか!12月24日
昨日12月24日が今シーズン初めての本格的な積雪で約20センチほど積もりました。揖斐川町ですと、クリスマス近くに必ず積雪があるイメージなのです。 お客様との会話でも、この季節になると「タイヤは代えましたか?」とか「もうそろそろ雪降りますよね」とか「今年も雪降るんでしょうか」のように雪の話題が多くなっていきます。「西にある山に雪が被り三度それがあると平野部にも雪が積もる」ような言われ方をしています。西に標高800m超の二つの大きな山がそびえていますが、その山々が雪化粧するとのような会話ですね。他の地域でもあるようですね。山々が雪化粧した痺れる寒さの朝は、その美しさがあまりに魅力的であると思うのですが、事務所出勤日については、余裕のある気持ちで、その美しさを眺めておられません。寒い中、雪かきをしなければなりません。スタッフさん達は、雪のせいで、長時間車通勤になってしまうこともあります。でも、こればかりは致し方ありません。揖斐川町のこの辺りは、「豪雪地帯」に指定されているようで、事務所近辺はご近所の建設業者さんが除雪いただいています。きちんと受け持ち道路が決まっているようで、一定の積雪があると、除雪要請があるようです。 そんな揖斐川町に当事務所はあります。面接で「雪降りますか?」「冬用タイヤ要りますか?」と聞かれることがありますが、いずれも「YES」です。雪がどうしても嫌という方は、うちで働くのは無理でしょう。とはいっても、少し前までは、昔と比べて、降らなくなった積もらなくなったと言っていた時がありました。でも、過去2年については、積雪で車が動けなくなるような状況にもなってしまったことがあるのです。地球温暖化の影響で、平成の時代は雪が積もらなくなり、スキー場が雪不足で経営ができなくなったと言われていました。ところが、令和の世になって大雪が再び降り始めたようです。先日、お客様と話していたら、「最近の雪の降り方はまるで昭和に逆戻りしたかのようだ」と言われました。まさしく、その通りだと思いました。私の小学生の時は、腰まで積雪がありましたからね。 おそらく多くの揖斐川町の人は、今年こそ大雪で悩まされたくないと思っているのでないでしょうか。
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今年の「わかれ」
年末医はになると世界10大ニュースとか、日本10大ニュースとかが新聞に掲載されますが、同時に今年亡くなった方をしのぶコーナーもありますね。今年は特に安倍晋三元総理の死去は、衝撃を与えました。私は国葬どうのこうの言われておりますが、安倍元総理は、国民こぞってそのご逝去を悼むべきなのではないかと思っています。まず、選挙のさなかで銃撃されての死であるということ、民主主義の根幹である選挙の応援演説の最中に撃たれるというのはなんと卑劣なやり方でしょうか。銃撃した相手に強い怒りを禁じえません。 安倍さんの在任中になさった政治は、とりわけ外交面で光るものが多かったように思います。日米の緊密な協力関係をさらに強固なものへと築き上げました。トランプ大統領との関係も、実に親密な間柄であったように見えますし、成果は大きくなかったけれどプーチンロシア大統領とも関係は良好でありました。歴代首相のうちでもっとも他国に最も良い影響を与え、世界をけん引する素晴らしい政治家でありリーダーであったと思います。国内でも、東日本大震災からの日本の復活を強いリーダーシップで引っ張る強い首相でした。そんな姿を国民は支持し、戦後最長の政権となったのではなかったでしょうか。彼の著書「美しい国へ」を読むと、なんて日本を深く愛して戦ってきた政治家なのかと心打たれました。一度目の首相辞任から、再度の登板では見事に復活し、ひ弱な印象を一掃されていましたね。自身に満ち溢れた彼の弁舌に、国民は大きな支持を与えたのでしょう。安倍さんが亡くなられて半年。まだ若い元首相、さらに日本のためになされたかったことが多かっただろうに、その無念を思うと残念でなりません。安倍さんとは、近くでお会いすることはできませんでしたが、歴代総理では、最も近くでお話しできたらいいなあと思える総理でした。安倍さん、安らかにお眠りください。誠にありがとうございました。年末近くに、さらに惜別の念を強く持ちました。 もうひとつ、今年なくなってしまったもの、「中央大学音楽研究会グリークラブ」。ここ最近部員数の減少に悩まされてきたのですが、コロナの影響で、新入部員の獲得も思うようにいかずとうとう廃部となってしまいました。大学4年間は、このクラブに捧げていたといっても過言ではありません。その思い出は、永久に自分の胸のうちに脳裏に残り続けると思います。ただ、現実の世界で後輩は増えていかないというのは寂しいことです。今後は、あまり後輩たちの演奏会を観に行ってやれなかかったのですが、そのなかで確かに、グリークラブの伝統が受け継がれ、音に表れていた。最後に聴きに行った定期演奏会では、大学時代に思いが行き、涙が出てきました。覚悟はしていましたが、とうとうこの日が来てしまったかと、廃部を伝えるOBへのメールを読んで思いました。70年にも及ぶ歴史。幕が引かれることなど、現役の時には思いもよらなかったですね。学歌である、「惜別の歌」がこの文章を綴りつつ頭に浮かんできました。でも、グリークラブとともに歩んだ4年間、自分にとって良い期間でした。グリークラブでの活動を許してくれた両親に感謝しつつ、またフリークラブでの出会いに感謝しつつ、その存在との「わかれ」を惜しみます。