コラム
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猛暑の中、東京のオープンキャンパスへ(中央大学、明治大学編)
8月初旬と言うと、高校野球開幕と夏のオープンキャンパス、花火大会というイメージですが、皆さんはいかがでしょうか。 私の息子、高校三年生になり、受験まで半年程度になりました。ということで、親として「最後のオープンキャンパス」参加のため東京に行ってきました。 長男、二男とは、合計すると5大学行っているのですが、最後の子ということで、三男と行くのが一番回数が多いのです。関西の私大3大学、愛知の大学は3大学、その他地域の大学に3大学と見に行っています。そして、最近、友達の影響からか東京の大学も受験候補に入れようと息子が言ってきました。それならば、ということで、8月初旬のオープンキャンパスに行くことにしたのです。実際に、東京の大学を見にいかないと、自分に合っているかわからないと。確かに、そのとおりであると、付き添いました。 今回は、2日にわたって、4つの私立大学を見学してきました。以下、私の私見となりますので、ご理解ください。 まず、1日目の午前に、八王子の中央大学へ。私自身の出身校であるので、校舎の配置などはよくわかっています。在学中には、モノレールはなかったのですが、すっかり中央大学の景色に溶け込んでいるという印象になりましたね。久しぶりに降り立った多摩センター駅。モノレールの駅前に、店が連なっているところは、初めてみました。以前は、多摩センターからは、バスだったのですが、すっかりモノレールにシフトしましたね。もともと多摩センターからはさほど遠くない中央大学。3駅目で到着。あっという間ですね。駅自体に、大学の名前が冠されていて、すぐに大学の構内というのは良いのです。しかし、息子が志望する「商学部、経済学部」の大教室まで行くのが遠い。途中に、階段も数多くあります。大学敷地内を10分程度歩かないと到着しないのです。あまりの移動距離の長さに驚く息子。学部の説明を受けた大教室ですが、私の在学中となんか変わったのか?と言ったら、変化がなんと乏しいこと。大型のスクリーンは設置されたのですが、座り心地の悪い椅子は変わらず、かなり急こう配の階段教室で、バリアフリーには程遠い。学部の説明会を、立ち見が出ている状態で満員になってしまったからと定刻より早く始めるという無茶な運営ぶりで、どこかちぐはぐ感があったと思います。大きな学食と図書館は大学の目玉商品だと思うのですが、残念ながらできてから45年も経っているので、老朽化は否定できません。もうそろそろ、大リフォームした方が良いのではないでしょうか。都心部に新しくキャンパスを整備するために、八王子のキャンパスの施設整備は後回しということでしょうか。38年前にはじめて行った時に感動したきれいなキャンパスは、随分色あせてしまったなあという感想を持ちました。最近、大学の校舎を建て替えるということがよく行われているから、見劣りがするようになっていますし、「昭和」感があって、時代遅れであると思いました。 都心部から遠いから、あまり人気がないということだけではないと思います。人気が下落している理由がよく分かりました。今、自分が高校生で、中央大学に入学したくなるだろうか?それは、ないかな。 そのあと、再びモノレールに乗車して立川駅へ。久々の立川駅。ますます巨大化した多摩地区の中心駅というイメージでした。中央線を使って、都心部である御茶ノ水駅へ移動。明治大学駿河台キャンパスへ。御茶ノ水駅から歩いて5分ほど、途中に数多くある楽器店を見ながら、賑やかな通りを歩いていくとそびえたつ「リバティータワー」。息子は、その大きさに圧倒されていました。オープンキャンパスということではないので、参加者は少なめですが、学生さんが、とても明るく質問に答えてくれましたし、「学生トーク」に出演していた4人も、関西の大学よりもはるかにプレゼンがうまく、とても楽しそうに役を演じていたのが印象的でした。「明治愛」が強く感じられるイベントで、とて気持ちよく感じられました。校舎が、新しくなり、女子の比率も高くなって、以前よりも明るい雰囲気になり、学生さんも自信を持っているような印象を持ちました。 高校3年当時は、中央か明治かの選択で、中央を選択した私でしたが、今なら圧倒的に明治です。あらゆるところで、明治の評判が良いというのも納得できることだと感じました。東京駅から、新宿駅から乗り換えなしで到着できる利便性だけではない、「勢い」のようなものを明治大学には感じることができました。 実は、明治大学は、私の父の母校。父は、強烈に私に対して明治をプッシュしなかったのですが。現在の明治の地位には、内心微笑んでいるかもしれません。
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夏真っ盛りですね。お身体を大事になさってください。父、再度入院。
7月終わりからパリ五輪の報道でいっぱいになったテレビ、新聞ですね。東京五輪があってから3年しか経っていないため、この前東京でやったばかりじゃないかという気持ちになっています。待ちに待ったオリンピックだという気持ちにはなれません。ただ、競技の勝者の動作の美しいこと。とりわけ、体操には目を奪われます。腕の筋肉の隆々とたくましいこと、身体を回転させる際の腕の伸び、脚の伸びの美しいこと、とてつもない技を見せてくれていることに感動を覚えます。本当に見事というほかありません。体操は、日本のお家芸と言われていますが、芸術的な美しさが、他国から抜きんでているように感じます。そんな美しい技を披露してくれている選手たちにありがとう、そして金メダルおめでとうと言いたいです。真夏で暑いことを一瞬忘れさせてくれる、素晴らしい演技をありがとうという感情です。 当事務所創業者である国枝隆は暑い7月20日生まれです。誕生日で85歳となりました。4月に大動脈解離という病で緊急手術を受けた時は、もう動けなくなるのではないかと心配をしたものです。85歳を迎えられるのだろうかと思ったのです。しかし、70歳代に四国お遍路をしたおかげか、足腰は悪くならず、2週間ほどの入院をしただけで、自宅にて85歳を迎えることができました。一方で、4月の入院の際に見つかったのが腎臓がんで、これは長年放置していたためか、非常に大きいものになっていました。放射線治療とか、薬物療法では、がんに対処できないといわれるほどでした。ということで、再び手術によって、がん細胞を含んだ腎臓の全部摘出手術を行うことになりました。かかりつけ医からは、「腎臓をとる手術は。比較的楽」と聞いていたので、私はさほど大きな心配をせずに、7月30日の手術の日を迎えました。思ったよりも長い時間がかかる手術でした。午前9時過ぎから午後5時ころまでという長丁場でした。待ちくたびれますね。とはいえ、手術を担当してくださる医師の先生方の腕を信用してお任せするだけです。これに対して、医師は、長時間責任を背負って、強い緊張感の中、執刀していただけるのです。 やはり、先生と言えるのは、学校の先生と医師でしょう。私たちの仕事は、命を預かる仕事でもないし、時間に追われる仕事でもない。確かにお客様の質問に対して、正しく即答できれば、かっこよいけれど。私たち税理士が、時に先生と言われる時もあります。そんなとき、「いえいえ、そんな先生って呼んでいただかなくて」と思ってしまいます。私たちは、医師のように命を救うということは、ほぼできませんから。借金を苦にして自殺するというようなお客様が現れないように、あらかじめ「決算の数値、試算表から読み取れる危険なサイン」をお客様にお伝えするのも私たちの役目だと思っています。その意味では、私たちも命を救える仕事になるかもしれません。 創業者の父は、私に自分の後継を託しました。そして、私の息子も、この仕事を承継したいと言ってくれています。ということもあって、冗談かもしれませんが、「いつあの世にいってもいい」という父です。今のところ、「親不孝はしていないだろう?オヤジ」と言えるなと。ただ、親より早く身体が不自由になってしまったのは、親不孝かもなあと。皆様、お身体を大切になさってください。
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柳ヶ瀬のシンボル岐阜高島屋の閉店
やはり、今年7月の岐阜県での一番のニュースは、岐阜高島屋の閉店でしょう。 すでに昨年、今年の7月に営業を終了するということが報道されていましたが、百貨店がどんどん閉店されていく中、決して驚くことではなかったものの、岐阜市の中心的商店街の真ん中にある岐阜高島屋の閉店は、寂しいなあと思わされるものがありました。私が、小学校の時にできあがったばかりの高島屋に行き、こんな高級感がある店が岐阜にできたのかあと感動を覚えた記憶があります。とにかく10階建て以上の建物は、当時は珍しく、胸躍る思いがしたものです。車を近くの駐車場にとめて、歩いて高島屋の近くの映画館にスターウオーズを父と観に行った記憶があります。高島屋がすぐ目の前にあって、きれいな建物だなあと眺めました。昭和の世も終わり、平成中盤になると、郊外型のショッピングモール全盛の時代になっていきました。自分が親になって、子供たちを高島屋に連れて行かなくなったというのも大きいのではないでしょうか。中心市街地であると、すぐ近くに駐車できません。立体駐車場で、出庫するのに時間がかかったりします。市街の渋滞も、高島屋を敬遠する要因になったことでしょう。それとともに、車を持った人であれば、大きな駐車場を備えたイオン、アピタなどの方が利便性が高いからでしょう。空間も広々としていて、子どもと一緒に行くならば、車で行けるイオンやアピタになるのが必然なのです。私が小学校の時には、お母さん方は、よく自転車を使って買い物に行ったり、通勤したりしていました。それが、車が日常的に使うものに代わりました。自転車や公共交通機関で買い物に行くという時代は終わりを迎えたということです。 大垣駅前のヤナゲン百貨店、岐阜市の新岐阜百貨店、近鉄百貨店と次から次に閉店していったのは、岐阜から名古屋があまりに近いからでしょう。品ぞろえの良さ、店自体に感じられる高級感、雰囲気の良さ、活気、どれをとっても名古屋にあるJR高島屋、名鉄、近鉄の各百貨店は、上回っています。名古屋には太刀打ちできないように感じます。 7月20日、高島屋の最後を見届けようと行ってきましたが、大賑わいとまではいきませんが、にぎやかな店内でした。喫茶店も満席であったり、御座候には、長蛇の列ができていました。私も、覚悟して並んだのですが、20分程度待ちました。その間、御座候ができ上っていく様子が見られて、決して退屈させられないのがいいなあと思います。あずきを目分量、感覚で素早く乗せていくのがプロの技だと感心させられます。人間が作っているから価値があるように見えます。あずきの量を考えると、1つ110円というのは、とても安く感じます。高島屋閉店に伴って、御座候も岐阜からなくなってしまうのではないかと、心配しておりましたら、JR岐阜駅駅ビルの中に、テナントで入るという情報が。でも、岐阜よりも名古屋で買う可能性が、私は高いかもしれません。岐阜駅前に、電車で行かないものなあ。 車の利便性を覚えたら、電車に戻ることはできないってものです。スマホから今からガラケーにかえられますか?
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気になる一時貸駐車場の料金表示
私の仕事場は、自宅とほとんど距離がないので、徒歩で通勤していますが、時に税理士会の行事等で、名古屋に行く場合や、大阪や東京に研修に行くときには、駅の近郊に車を駐車して出かけることも時にはあります。 揖斐川町から岐阜駅へという時には、平日の朝9時過ぎころまでが交通量が多くて時間がかかります。そして、そのあとになると、道路事情は改善して、所要時間は短くなりますが、今度は空いている駐車場を見つけるのが難しくなります。使いやすい(駅からのアクセスがよく、比較的安価で、駐車スペースが広め)という場所を見つけようとすると、車で駅周辺をまわることになってしまいます。一時貸の駐車場は、平日はまだ空いていて、入りやすいのです。ところが、土日になるとさらに車が増えていて、空いているスペースを探すことが多くなってしまいます。 このように、駐車場を探して、周辺を動き回る経験はよくありますか?以前は、岐阜羽島駅周辺でやりました。北口の駐車場がどこも満車で、南口にまわって見つけました。 今回、金沢まで行くのに、米原駅から電車に乗ろうとしたのですが、ここでもまた、どこも空いておらず右往左往することになりました。岐阜方面から近い東口が新たにできて便利になったのはいいのですが、東口に近いところは、どこも満車状態でした。仕方ないと、跨線橋を渡って西側に行くも、駅から近いところは満車。もういい加減に駐車しないと、あらかじめ買っておいた時刻の列車に乗れないぞと焦り、スーパーの駐車場も兼ねている時間貸駐車場にとめることにしました。パット見て24時間まで「700円」に見えたからです。そのときは、いやに空いているのは不自然だなと思いました。 そして、帰ってきて、料金を支払う際に驚きました。「2100円」でした。え!700円じゃないの?と思ってよくよく見ると、平日700円、そしてそれよりもずっと目立たない文字で土日祝日3000円上限だったかな?と書いてあるのです。急いでいたら、間違えて駐車してしまいますよ。帰ってきたら、そのスーパーで何か買おうと思っていたのですが、買う気が失せてしまいました。不都合な料金設定だから大きく書けないのでしょうか。そのような誠実さに欠けた表示方法は、商売のやり方として、使う側の立場に立っていませんね。「消費税抜、消費税込」を併せて価格表記するのはよくやられていますが、消費税抜価格があまりに目立って、税込価格が目立たないというのが多いように思います。このやり方も、消費者を欺いていると思えます。 販売する立場の人は、「買う人の身になって考える必要性」があることを認識していかなければ、と思わされた出来事でした。
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「北陸新幹線敦賀開通」によって不便になった金沢行き
先日、金沢まで日帰りで行ってきました。行きは、鉄道で、帰りは自家用車で。 なぜ帰路が自家用車なのか不思議に思われるかもしれません。 なぜ金沢か?息子が気に入った中古車が金沢の販売店にしかなかったからです。 なぜ金沢の業者から買うのか、全く理解できません。もう少し待ったら近くで帰るのでは?とも思いました。 「お金の振り込みはどうするの?」「信頼できる業者なの?」「わざわざ時間かけて、車を観に行くメリットってあるの?」 「メンテナンスもしてもらいにくいだろうし」といろいろ言っても、なかなか聞いてくれません。 車を観に行って引き取りするまで1か月以上も必要でした。何をやっているのでしょうね。本当、時間がもったいない。 そして、引き取りの際に「帰りの運転は1人では不安だから」と親がついていくことを求めました。 私としては、何でついていかなあかんの?という気分でしたが、妻がついていくと言い出したので、渋々?!付き添うことに。 行きは電車で、米原駅から乗車を選択。というのは、大垣からの乗り換えなしで金沢に行ける電車がなくなったから。 以前は、「特急しらさぎ」があったのですが、乗り換え検索すると出てくるのは、大垣から米原まで在来線の各駅停車を利用してという経路だけなのです。米原からわずかに30分程度特急しらさぎに乗って敦賀という経路なんです。なんと途中停車するのは、一駅長浜駅のみ。米原駅から同じ車両に乗ったのは、私たち3人だけ。午後2時近くという中途半端な時間帯だからでしょうか。ゆったりしていていいなあと思うものの、こんな状態では、廃止されてしまうのではないかと思わずにはおれません。うーん、もう電車で行く路線ではないということでしょうかね。敦賀までの途中長浜ではわずか1人乗っただけでした。 敦賀で、北陸新幹線への乗り換えについては、「不便だ、時間がかかる」と聞いていましたので、心の準備をしていましたところ、座席の前ポケットに「敦賀での乗り換え案内」が挟み込んであり、それを見ていると、さほど難しくはないと感じました。さて、乗り換えの敦賀駅。やたら、空きスペースが大きくて、空間が広く、伸びやかさのあるホーム、真新しいエスカレータ、通路に気持ちよさを感じましたが、お買い物できる場所が、コンビニみたいな売店しかないのがさびしい。普段、東京駅、新大阪駅、名古屋駅のにぎやかさを見慣れていると、とても物足りない気がします。 乗り換えに、平面移動も上下移動もあって、決して短距離の乗り換えではなかったですが、通路は広く歩きやすいので、決して時間がかかるとは思いませんでしたが、以前は乗り換えなく金沢に行けたことを考えると大きくマイナスでしょう。さらに、大阪方面からの特急の遅延に合わせて、新幹線を遅らせるということをするのですね。時間が読めないではないですか!東京から福井は良くなったけれど、大垣から全く良くない「北陸新幹線敦賀まで開通」を実感します。 帰りは、自家用車で移動。車ならば、乗り換えもいらないし、さほど時間もかわらないし、それじゃあ、「新幹線なんて乗らないな!北陸は、バスで行こう!」となりますね。もっとも西日本旅客鉄道さんにとっては、岐阜の乗客なんて重視する必要ないのでしょう。「しらさぎ」は、若いころの思い出の特急なので、存在感が薄くなるのは寂しい限りです。
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高校野球を観た試合後 大垣東高の伝統!?
7月15日の「海の日」、特別に外出する予定もなかったため、大野町のレインボースタジアムに高校野球を観に行きました。大垣東高校、私の母校が登場するからでもありますが、更に言うと、息子2人の出身校でもあります。同校の育友会(PTA)でも活動させていただいたこともありますので、三男(別の高校に在籍中)を除いて4人そろって行くことにしました。 残念ながら選手の中で、私が知っている選手はいなかったのですが、監督は、二男の担任であった先生ということもありました。とても若く、30歳代前半の先生です。 対戦相手は、遠く飛騨方面から遠征に来た高校ということで、応援団は少なかったものの、選手たちの声は、よく響き渡っていて、元気よく楽しくやっているのを微笑ましく思わされました。 私が観戦していたバックネット裏席は、球審が一番目立つと感じる席です。審判の動きが、逐一よく見える席で、この暑さの中、ずっと立っていなければならないのは、体力がいるだろうなあと思います。2時間以上は、球を集中して追い続けなければならないから。私も「少年野球の球審」をやらせてもらったことがありますが、暑さの中、頭がクラっとしたこともあります。審判の「ストライク」、「アウト」、「セーフ」の声が良く聞こえると、試合に入り込めるものです。球児たちの動きに触発されたのか、気持ちよく動かれていたのも印象に残りました。 大垣東高校に息子たちが在籍したときは、平日に試合があったり、遠隔地で試合があったりで、今まで母校の観戦はした覚えがありません。今年は、試合開始から勝利チームの校歌を聞くまで約2時間程度にわたり観戦しました。強豪チームではないので、校歌を球場で「聞き」、「歌う」という特別な経験ができてよかったなあと思いました。 試合後、Saxと書かれた楽器ケースを持った女子生徒に聞いてみたくなって、ついつい 「東高に吹奏楽部はあるの?」と話しかけてしまいました。 女子生徒「ないんですよ」 私「じゃあ、自発的に?」 女子生徒は、首を縦に振り、そうだという感じだったので、 「僕も30年以上前、同じようにやっていたよ」「そのときは、ベスト4までいったよ、3年生の時に(1986年です)」 女子生徒は、「へー、すごい」という反応でした。 吹奏楽部なき東高を応援しようと自主的にラッパ隊やっていた伝統が、まだ残っているのか!!と感動させられる試合後でした。 1986年の対大垣商業戦の大熱戦は、今でも脳裏に焼き付いている。
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相続税の基礎知識2 「だれが相続」するのかが重要
お父さんが亡くなった、相続税の申告も必要! 前回のお話では、財産の価格が、3000万円+600万円×相続人の数よりも上回るということであれば必要ということでした。 では、相続人の人数は、何人でしょうかということが必要ですね。 これは、「民法」の相続編に規定されるのですが、 このように覚えておきましょう。 ①配偶者は、必ず登場する。 以降は、次の順番で相続する②子(養子を含む)③直系尊属④兄弟姉妹 一番あるケースは、配偶者と子どもがいるケースです。 ①お父さんが、亡くなった。お母さんは、生きておられて、その子どもが3人の場合は、相続人の数は、4人となります。 ②ある方がなくなりました。その方が、結婚されていない、養子もいないという場合、 お父さん、お母さんが生きているならば、そのご両親が相続人となります。相続人は、2人ということです。 ③そして、②のケースで、ご両親も他界されていて、残された兄弟姉妹が2人いるというならば、相続人は、2人ということになります。 相続というのは、年上の者から年下の者に財産を移していくのが普通ではないでしょうか。 ①のケースの「親から子へ」であれば、実際に上から下へと財産が引き継がれていって何ら問題はありません。 ところが、②のケース、悲しいことに独身の息子に先立たれたご両親のケースです。 今まで育てた息子が稼いだ財産を親が受け取るというのは、養育してきた報酬代わりということも言えないではありません。生活に困窮しているご両親であれば、ありがたいことかもしれません。 しかし、独身の息子に、「兄弟」がいて、その兄弟に「子ども」がいるというケースでは、どうなのでしょう。 財産を相続した親が、相続税を課されるほどの財産を持っている場合だと、相続税が重くなってしまう可能性があります。 それを回避するためには、やはり財産は、年長者から年少者へという「上から下へ」という流れを なかば人工的に作っていくのが有用だということになります。具体的例は、後日述べていきたいと思います。 ③のケース。こういうケースも申告させていただいたことがあります。ご兄弟相続ですね。 「お兄ちゃん、質素に暮らしていて、財産残ったんだよね。もっと、自分のためにお金使ってれば良かったのになあ。」「こんなのをもらうのは、気が引けるなあ」というのが、担当させていただいた際のお客様の声でした。 故人とほとんど年齢の変わらない相続人にお金が入っても、さほどお金を使わないのだよなあというのが通常です。 ここでも、相続財産は、「上から下へ」という考えが有効になります。この場合も、事前に対策をすれば、その流れを作り出せます。 相続相談会_広報いびがわ用_20240607 相続相談会のお知らせです。 令和6年8月25日 午後1時~5時(事前予約優先) ご予約電話は、℡0585‐22‐5660 大野町総合町民センターにて相続相談会を開催します。 相談員は、代表の国枝、相続担当行政書士の横山、そして大野町の司法書士である近藤慎也氏です。 お待ちしております。
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いび倫理法人会への想い‐開設15年に寄せて①-
「倫理法人会」をみなさんはご存じでしょうか。 一般社団法人倫理研究所の指導の下、これを守れば幸せになり、守らねば不幸せとなる「生活の基本法則」を学び、 経営者として、その心はどうあるべきかを学び団体です。短く言うと、「心の経営」を学んでいる団体です。 経営者の団体は、いくつかあれど、これほど全国津々浦々に、経営者の心に関する学びの場を持つ団体はないのではないかと思います。 ボランティア団体であるライオンズクラブ、ロータリークラブなどは、長い歴史があるのですが倫理法人会は、そこまでの歴史はありません。しかし、会員数を着実に伸ばしているようです。 私が、倫理法人会という名前を聞いたのは、2009年。いび倫理法人会が産声を上げる時でした。当時の岐阜県の会長、「いび」の会長の二人が、来られて「いび」に会を立ち上げるので、来てほしいということで、お願いに来られたのです。そのときの「いび」の会長は、小学校の時に名前は聞いたことがある人ではあったのですが、商売上のつながりもなく、自分はその説明を聞く気にもなれなかった気がします。 しかし、何度も、お2人が来られるうちに、断りづらくなってしまい、まずは夜のセミナーに誘われたので、行ってみました。なるほど、いい話をされるなあ、「支払日が最良の日」かあ。お金の支払いを渋って、後回しにするよりも、進んで払う、金払いが良いと信用されるよなという思いで、話し方もうまい講師で、気持ちがいいことを教えてくれるなあと好感を持ったものでした。 それからしばらく経ってから、今度は、ぜひ朝のセミナーに来てほしいとお話がありました。6時からというと普通は、午後6時からと思いますよね。違いました。「エー、朝の6時?しかも毎週やるの?」と、そのハードぶりに度肝を抜かれた思いでした。 さて、朝の6時少し前に、会場に着くと、会長自らお出迎えでした。「おはようございます」と大きな声で、元気よく対応いただいたのを思い出します。その会長さんこそ、初代会長、株式会社トミタ代表の富田右一さんでした。 会場は、揖斐川町商工会館の大ホールで、100人も集まっているということでした。こんなにも早くから、これほどの人数を集められるこの団体ってすごいなという印象を持ちました。しかも、みんな一生懸命に「栞」なんていうのを大声を出して読んでるし、なんかとても気持ちいいなあという印象でした。朝っぱらから、気持ちが悪い団体という言い方もありますが、私は肯定的にとらえました。いい団体だろうなあと。 しかし、入会には及び腰でした。1ヶ月1万円。年間12万円って、出費多すぎない?経営者団体で、もっと会費が安いところもあるよなということで。 ようやく入会したのは、2011年4月のことでした。東日本大震災の翌月です。私も、代表となったので、何か勉強しないといけないと思っていたのもあり、さすがに何度もお断りするのも、申し訳なくなってしまったのです。 会員になり役員になってみると、100人いたモーニングセミナーは、いびの会員ばかりでなく、他の地域の会員まで集まったからなのだというのが分かりました。こうして、当時の富田会長の元気の良さにも感化されて、「このような代表になれたらいいな」という思いで入会したのでした。 初代富田会長は、現在天に召されてしまいました。あまりにも若い死でした。当時52歳。お手本にしていた大先輩を亡くして大変ショックでした。「くも膜下出血」による死でした。いび倫理法人会へと導いてくれた超明るくお調子者であった富田さん、「あなたの会は、なんとか15年を迎えましたよ」と報告したいですね。我が家の墓は、富田さんの眠る墓と同じ寺の中にありますから。