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事務所50年を迎えて 昭和ノスタルジー 

事務所創立50年を迎え、過去を振り返ってみています。

懐かしのあのころ、今とは違う風情があのころにはありました。

それをわが子たちは、当然ながら体験できないのが残念なことです。

私が生まれた昭和43年。というと、意外に先の悲惨な大戦から「23年」しか経っていないのですね。

まだ「平成年間」の方が長いのですね。かといって、私は戦争を体験している年でもなく、

身近にいた祖母より大垣が空襲で燃えているのを見たよという話を聞いたのを覚えているくらいです。

私の子供のころ印象的であった建物で今残っていない建物というと、

揖斐小学校校舎、揖斐小学校講堂、揖斐小学校南に存在した図書館。おおむね、小学校周りに懐かしのものはありました。

揖斐小学校校舎は、以前は「北舎、南舎」と2棟になっていましたが、

現在は少子化、近隣の人口減、流出の影響を受けて1棟に集約されてしまっています。

私が低学年の時に、北舎が木造建築から鉄筋コンクリート3階建てになりました。当時は、新しくなって、「独特の新しいにおい」に感激したものです。

講堂は、床に畳を敷いて柔道をしたなあ、その畳が積んである上で遊んだり、ステージ裏を走り回ったりしたなあとか、時に選挙の投票所になっていて、

親についていったこともあったかなあとか、小学校は自宅から徒歩2分の至近距離にありました。

三輪神社とともに身近な遊び場であったなあと思います。

そして、隣接していた図書館と歴史資料館。木造で、独特の雰囲気がありました。あまり本を一生懸命読んだ記憶がなく、2階にあった歴史的遺産に興味を

惹かれていたように思い出します。残念ながら、この図書館も今はなく、小学校の運動場になっています。

小学校の近隣には、今はほとんどなくなっているだろう「珠算塾」がありました。細い通路のやや奥まったところに、木造の塾の校舎。

冷房もない時代、蒸し暑い中、できないと悩みつつ通った記憶、その前後でいろんな遊びをした記憶が。先生も、「昭和風」でした。今だと問題になりそうなことを当時はやってました。木の四角い棒で頭をたたくんです、もちろん思い切りではないですけれど。にもかかわらず、数多くの塾生がいたということは、その当時はそんな「体罰」は気にされなかったのですね。さらに、懐かしの駄菓子屋。小学校の時は、自宅より楽に歩ける範囲に3軒あったのですが、いずれもなくなってしまいました。

「タイムマシーン」(ドラえもんの秘密兵器、これも昭和的かな)があったならば、昭和50年に行きたいですね。

自宅には、「はえとり」が食卓にあり、汲み取り式の便所であったり、食品添加物の多い食であったりと今の快適な生活に慣れた身にはと嫌になるから、1泊2日で帰ってきたくなると思いますけどね。

昭和の時代は、古いものをどんどん捨てる、壊す時代であったようにも思えるのです。それが、今では使えるものは残そう、できるだけ捨てないにシフトしました。

昭和の時代、懐かしいとは思うのですが、令和の現在の方がはるかに便利になり、快適になり、物が十分に生きわたっている良い時代に思えます。技術革新が私たちの生活を仕事の質を向上させてきていると思います。そのような日々の技術進歩に感謝をしながら生活していきたいものですね。