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私の趣味 クラシック音楽③高校時代より合唱の世界へ

中学では、吹奏楽部でトロンボーンを吹いていましたが、残念なことに進学した大垣東高校には吹奏楽部がありませんでした。吹奏楽部があれば、入っていたことであろうと思います。代わりにハンドボール部に所属しましたが、中学三年間にスポーツ系部活に属さずにきたため、他の部員との差が厳しく、場違いと感じ、3ヶ月ほどでやめることになってしまいました。吹奏楽部に近いというと合唱をやる音楽部が存在していましたが、男子部員が1人だけで、入部するのを躊躇っていました。

ところが、同じクラスで、音楽部を希望していた男子がいるということを知り、その彼と中途で入部することになりました。 その後、中学で吹奏楽部をやっていた同級生2人を加えて、男子のコアなメンバーとなりました。他に美術部から臨時部員として入ってもらったり、新1年を女子部員が臨時部員を勧誘してきたりして、2年の時は、なんとか音楽部は女声合唱から混声合唱になることができました。コンクールの課題曲(選択曲)と自由曲を特に専門的な先生が来て指導されるのではなく、時々OBの方が指導に来て指導されるというように運営されていました。そして、本番は生徒の指揮で出場していました。

 

そんな中、後輩で吹奏楽部に所属していた人たちと一緒になって、東高にも吹奏楽部を設置してほしいということで、運動をしました。残念ながら、実現できずに解散させられてしまいました。無謀なことをやったものだと思うのですが、その頃は、まじめに、「仲間はそれなりに集まった、吹奏楽部を設立させるぞ」という意気込みではあったのですが、先生方に全く取り上げてもらえなかったのです。

 

結局、指揮をやっていた3年の先輩が退部し、私が指揮者をやることになりました。それなりに中学から指揮をやっていたので自信はあったのですが、前の先輩たちと比較されて違うということで、色々と言われたり、こちらの言っていることを聞いてもらえなかったり、懸命に合唱やるという姿勢に部員を引っ張ることができなかったのでした。NHKのコンクールと全国合唱連盟のコンクールに出場したのですが、順位が公表される大会では、中位ほどだったと思います。

 

3年になると、3年男子部員が退部したので、女声合唱にまた戻ってしまったのです。なぜ自分は退部しなかったのか記憶していないのですが、私はそのまま部活動を続けていました。引き続き指揮者として。特に誰に習うのでもなくという感じで、中学での吹奏楽部での経験をベースにして3年の半年ほど続けていました。よくやっていたなあと思います。先生や両親から部活動やめたらとは当時言われた記憶はありません。よく続けさせてもらえたものです。 コンクールで演奏したのは、2年の時は、いずれも日本語合唱曲3曲。3年の時に、連盟のコンクールでラテン語で演奏する宗教音楽を演奏しました。ラテン語での歌唱は、これが初めてでした。順位は、2年の時よりも上がったと思うのですが、部員の熱が上がっていかないので、不完全燃焼であったように思います。まるでやり切った感じはしなかったのです。

 

大垣東高校の音楽部は、伝統的にカリスマ的な指揮者が出ていたので、コンクールでも優秀な成績でした。私は、全く足元に及ばなかったのでしょう。中学時代は、吹奏楽部にいても、歌えない部員ではいけないという顧問の先生の考えから、よく合唱もやったものでした。だから、合唱も大好きで思い切って歌っていました。その時の顧問の指導を生かした指揮をしていたのです。いずれにせよ、ステージでみんなで歌った経験よりも、前に出て、指揮をしていたのがほとんどであった高校生時代であったと思います。