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代表国枝の趣味 クラシック音楽②中学生時代

小学校の6年生に少年野球に入ったものの、試合にも出してもらえず悔しい思いをしていました。自分はスポーツには向いていないことがわかっていました。

また、当時は宇宙戦艦ヤマトのサウンドトラックをよく聴いていた思い出があり、歌を歌うのも好きで、ピンクレディの『UFO』とか『サウスポー』なども教室の中で歌っていたような気がします。中学に入る前に聴いた揖斐川中学吹奏楽部の定期演奏会で、自分が入るのは吹奏楽部だと自覚したと思います。

中学に入ってすぐに部活見学に行ったときに、ちょうど中学近くに揖斐川の河川敷があり、そちらで花見をしながらの練習でありました。先輩よりトランペットのマウスピースを渡されて、ブーブーと吹きました。当然ながら、うまく音が出せません。これで務まるのだろうかと不安になりながら時を過ごしました。しばらく経つと、トランペットからパート分けが始まり男子7名が各金管楽器に振り分けられました。私は、カッコいいと希望していたトロンボーンの担当になりました。何度もスライドが手から離れてしまってスライドを床に落として楽器の管をへこませてしまっていました。1年生の時は、訳がわからないうちに、コンクールに出していただいたように思います。当時のコンクールでの演奏曲は、櫛田作曲の東北地方民謡によるコラージュ、吹奏楽のための飛鳥といった和のサウンドがメインで、私が吹くトロンボーンパートは、地味な役回り、同じ音を長く伸ばす場面が多かったように思います。

当時の揖斐川中学吹奏楽部は、顧問の矢橋文夫先生、「鬼の矢橋」と言われるほど怖かった記憶があります。暑い音楽室の中で繰り返され延々と続くチューニング、妥協を許さぬ音作りに、辛さはあったものの惜しくも東海大会行きを逃す県大会金賞受賞につながりました。コンクール会場は、各務原市民会館で、二階席はステージを見下ろすように聳え、舞台袖でとても緊張した覚えがあります。

2年生になると、トロンボーンの活躍機会が多いゾルタン・コダーイ作曲のハーリ・ヤーノシュ。大変吹きごたえのある曲であった。もとは管弦楽曲であるので、吹奏楽への編曲版で、一部抜粋してのコンクール演奏。またしても県大会金賞で、もう少しのところで東海地区大会行きを逃しました。当時は、穂積中学と泉中学が「東海大会行ききっぷ」をずっと手にしていて、特にご近所である穂積中学にはライバル心がありました。

とはいえ、スポーツとは違い、音楽では相手を打ち負かすというものではないので、ひたすら自分たちが、美しい音で、技術力、正確さを磨いていく他にありませんでした。合奏コンクールの他にも、アンサンブル・コンテストで県大会に行ける栄誉もあり、朝から下校時刻まで音楽室等で、のめり込んでよく練習したものです。

3年の時は、さらにソロコンテストで県大会金賞(金は第1位という意味ではありません。優秀グループという意味です)を受賞。この時の表彰の際に会場で衝撃的な出来事がありました。銀賞になったある生徒が、舞台袖で表彰状を破って捨てるという行為に及んだのです。その破り捨てられた賞状を目の前に、私は呆然とした記憶が今でも残っています。
そして最後の夏のコンクール。その年から予選があり、予選は難なく通過し、岐阜県大会は岐阜市民会館で行われました。顧問の先生のミスなのかよくわからないですが、決められた演奏者数の制限を超えて演奏したということで、揖斐川中学は、選外になってしまいました。しかし、全出場校中、審査員の点数は、最も採点が高かったようで、それが慰みであり誇りでした。演奏曲は、オットリーノ・レスピーギ作曲「ローマの祭り」、金管楽器が華やかな色彩感豊かさがうりの名曲。音が大きい私のトロンボーンは目立っていたようでした。

楽器ばかりでなく、指揮者としても定期演奏会で振らせていただいたのも思い出に残ります。指揮した中で、E.T.の音楽が大半のジョン・ウィリアムズの音楽メドレーがありました。彼の音楽というと、スター・ウオーズなどの名曲の数々がありますが、今でも、生きておられて、名門オーケストラを指揮する姿を見ると、とても嬉しくなります。映画音楽もクラシック音楽と並んで好きなジャンルであります。
この数年で観た映画でいうと、「君の名は。」の挿入歌、全てが名曲であり、ラドウィンプスのボーカルの透き通った声はいつ聴いても好きだなあと思えます。さて、何度聴いたやら。洋画であるなら、「ララランド」。全編に美しく流れる音楽があり、時にピアノの切ないメロディあり、映画冒頭のリズミカルな音楽に合わせて、縦横に車の上でダンスするシーンなど元気付けられる曲もありで。
結局、中学時代には、吹奏楽の東海大会には行けずに終わり、ある高校から吹奏楽部からの誘いはあったものの、興味は持てず、吹奏楽部のない大垣東高校に進学したのでした。