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病後退院より6年経過し思うこと プロローグ

いまだに鮮明に思い出せる6年前2019年9月9日のこと。こちらのコラムでは書いてこなかったことではあり、初めて知られる方もあるかもしれません。この日私は、「脳出血」を発症して、救急車で、岐阜大学付属病院に運ばれました。そして、岐阜大学病院と岐阜清流病院に入院すること約3か月半。ようやく12月下旬にようやく自宅療養となりました。翌年2020年1月にようやく職場復帰したのですが、あれから6年。ちょうど小学校の就学期間と同じです。それなりの時の経過と、不自由な体への慣れにより、今となっては、落ち着いた心持ちに変わってきています。

9月9日の午前忘れることはないでしょう。朝から、何となく「気持ちが悪い」という違和感がありました。朝礼のスピーチでは、「何かしゃべりにくいぞ」という感覚になり、その後のお客様との面談時には、お客様との対応を担当者に任せていたものの、「声を発する気力が出ない」状態でした。さらに、体の異変は、続きました。デスクワークしていると、「なんだか左腕が重いぞ、上げにくいな」という感覚に襲われました。そして「やけによだれがたれてくるな」と。とても仕事を続行する状態ではないと判断して、「体調悪いから寝に帰る」と隣の妻に話しました。

妻が「いや、そんな状態じゃないよ。すごく体調悪そうだよ、すぐにのだ医院に行こう」と言うのです。まだ、私はこの時何が起こっているのか理解できませんでした。のだ医院は、歩いてもすぐに行ける距離ですが、妻が車で送ってくれました。いつの間にか、「立てなくななりつつある」と焦りました。先生に急遽診てもらいましたら、すぐに「救急車で病院」へということで、救急搬送されたのです。

のだ医院に入ったのは、正午近くでした。その後、救急車で運ばれている最中に、血圧計の表示を見ると「235/180」というようなとんでもない数字が。あーこれは、いつか見た数字だと思いました。以前、倫理法人会の先輩に付き添って、救急車に乗った時と同じだなと。気は失っていなかったのです。確実にヤバイ、まずいなということは思いましたけれどね。

病院に着いてから、あまり覚えていないのです。特段、大手術はされませんでしたが、脳出血によって、運動機能を大きく損なうことになりました。これからの仕事、引き受けている役職どうなるのかということばかりが気になりました。岐阜大学病院での日々は十分に覚えがないのです。入院後に、すぐにリハビリが始まったということ、装具を付けて歩かせようとされていたこと、その装具の装着が面倒くさいというイメージしかありませんでした。歩けない自分、これは大変だなあと。そして、左腕が使えなくなっている。でも、まだ道半ばだ。一刻も早く復帰したいという思いがいっぱいでした。急性期の治療が終わり、リハビリ主体の病院に転院することになりました。岐阜清流病院への転院、介護タクシーに乗って移動したのです。車への乗り移りも非常に危ない状態でした。

みなさん、次の症状がでたら迷わずに救急車ですよ!

「ろれつがまわらなくなる」「気持ちが悪い」「腕が重くなる」「よだれがたれる」これらが、重なると脳血管疾患になっている可能性があるということです。覚えておかれるといいです。こうなったら、速やかに救急車を呼びべきです。

私の場合は、妻が隣にいましたから命拾いしました。もし、一人だったら自宅で眠り込んでしまい、命を落としていたかもしれません。妻の判断、「すぐに医院へは正しかった」ということです。感謝しています。