現在、私は56歳です。大学には、高校を卒業してすぐに入学しましたので、38年前に大学に入学したことになります。もうずいぶん遠くなってきた昭和の末期です。昭和62年、西暦で言えば1987年なのですね。今から、1987年を観てみれば、時代の転換期ともいえる時代であったと思います。大きな話題とすると国鉄が分割民営化されたのが、1987年のことでした。JRという新しい民間鉄道会社が発足しました。岐阜県内の国鉄だとJR東海に、首都圏ないだとJR東日本へと変化しました。国鉄時代は、たびたび値上げがあり、赤字だらけと批判されたものが、JRとなってからは、運賃の値上げがほとんどなくなりました。値上げは、消費税が導入された時くらいだったように思います。そのことを考えるならば、民営化は成功だったと言えるのですが、「赤字路線」を切り捨てて第三セクター方式に移行する路線が数多く出ました。どうしても、営利企業となれば、不採算の部門(路線)は切り捨てることになるのはやむをえないことでしょう。そのローカル路線の維持について、地方自治体の予算が割かれていっているわけなのでしょう。あと、国が作ってきたものを民間に切り売りしていくという手法はさて、公平なのかという疑問はあります。民営化の先例である日本電電公社、のちの郵政民営化も同じだと思えます。人口が多い地域については、手厚くなるが、人口が少ないところでは、サービスが手薄になっていく傾向にあると思います。「地方を元気にする」政策とは、逆を行くのが、公営事業の民営化という側面もあるようにも思います。いかがでしょうか。大多数の幸福を追求するという理念のもとに、公営企業が民営化されていると信じたいと思います。
1987年といいますと、携帯電話はほとんど普及していませんでした。「ポケットベル」というものはあって、呼び出しをして、その折り返しを待つというものがありましたが、すぐにコミュニケーションをとれないもどかしさを感じたものです。さらに、「ポケットベル」を持つのは限られた人だったと思います。携帯電話は、自動車についた電話機や、重い機器を肩から下げて通話するものがありましたが、いずれも学生が持つものではありませんでした。
親元離れて、一人暮らしする学生に不可欠だったのは、加入電話であり、「電話加入権」でした。電話加入権は、当時72800円で売っていたと思います。一度に72800円は、かなりの出費ですよね。さらには、通話料です。当時は、遠距離通話が割高であったので、東京から岐阜まで気軽に電話するのも躊躇しました。公衆電話でテレフォンカードの1000円分があっという間に「度数」がなくなっていきました。そこで、現状報告には、よく「手紙」を書いたものです。この手紙を母は、大事に持っていてくれるのですが、自分では「恥ずかしくて」読む気がしません。きちんと丁寧な字でびっしりと書いた手紙です。しかし、この手紙の内容は、思い出すことはできません。
今の学生は、ノートパソコンは必須アイテムなのですが、当時「パソコン」はまだ登場していませんでした。コンピュータは、存在していたものの、身近ではなく使いにくいものであったのを記憶しています。当然、画面はカラーではなく、奥行きの長いブラウン管でした。ようやく出始めたのが「日本語ワープロ」でした。しかし、表示される範囲も狭く、機能も乏しかったと思います。ただ、手書きよりははるかに楽であった記憶があります。大学1年の時は、学級があって、担任の先生もいたのですが、先生が作成された名簿は、「手書き」でした。「名簿」の存在すら、後に作られた「個人情報保護法」により、珍しいことですよね。さらには、「手書き」ということで、今思うと「昭和感」が非常に強いと思います。
そう、現代にはある「インターネット」も当時ありませんでした。これが、一番大きな違いなのではないでしょうか。これは、ソ連崩壊、冷戦構造の崩壊を原因とするものということを言われていますが、私の学生時代と今の違いで一番大きな違いは、「インターネット」ではないかと思います。通信技術、情報技術の著しい発展によって、私たちの生活は、大きな変化を遂げ、格段に便利になりました。その恩恵には、感謝するべきだと思いながら、この文章を書いております。