コラム

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好評の「相続無料相談会」を5月24日(土)に開催しました。
昨年は、4回開催した相続相談会ですが、今年も引き続き土曜日を中心にして開催していきます。 平日は、お仕事の都合などで時間が取れないという方々のために、私どもの知識を活用していただきたいという思いも込めて行っています。 5月24日は、揖斐川町三輪の当事務所内にて実施いたしました。 完全にプライバシーを確保した個室で相談させていただいていますので、周りの目を気にせずにお越しいただけると思います。 当事務所は、車を駐車するスペースを十分に確保して、お客様をお待ちしていますので、気楽にご来場いただけます。 時折、当事務所の場所についてお尋ねいただくことがあります。所在地は、揖斐川町役場西に300mほどの場所であり、道路に沿って所在しているため、 非情に分かりやすい位置にあると思います。「役場南側の道路沿い」で山の方に向かい左側に事務所はあります。 今回のご相談会には、多くの問い合わせ、お申込みをいただきました。「相続」「相続税」に対する世間の関心は強くなっていると感じさせられました。 とはいいますが、本当に事前に対策が必要だと思う方々にご来場いただきたいと思うのが本心です。 どんな人が必ず、相続について「対策」していくべき方ってどんな方なのかをお知らせしましょう。 まず、お子さんがいない方です。 「お客様の相続人は、まずご両親、ご両親がいない場合は、ご兄弟になります」 息子がなくなって、その稼ぎが貯まったから、それをもらってうれしいと思うご両親は少ないのではないでしょうか。相続財産は、やはり年長者から年少者へと引き継がれていくのが自然な流れであると思うのですけど。 それなら、どうしていかなければならないのでしょう。年少者で、あなたの財産を引き継がせたいという人はいますか?いるとするならば、その意思を残していく「遺言書」を作成するのが良いでしょう。 ある方は、「生きている兄弟姉妹」には財産を引き継いでもらいたいと思っていました。ところが、兄弟姉妹のうち亡くなった人がいる場合はどうでしょうか。そうしますと、兄弟姉妹のお子さんたちに、財産が引き継がれることになってしまいます。今までさほど交流がなかった甥や姪に財産を引き継がせるのは不本意なことなのではないかと思います。しかし、何も備えていなければ、ご自身の意思通りの財産の引継ぎができません。こんな時は、特に「遺言書」がその効果を発揮します。 これからは、「生涯結婚しない」という方が、増えていくことが統計調査を見ていると予測されます。50歳を超えて、自分は結婚しないと決めている方も、自分の財産を受け継いでほしい人を決めておくとよいでしょう。その人に財産を受け継いでほしいという意思をのこすのに「遺言書」が良いのです。ぜひ、「行政書士」「税理士」などの専門家に相談していただくことをおススメいたします。 次回は、8月23日午後に大野町総合町民センターに出張して開催する予定です。ぜひ、相続に関して分からないこと、お尋ねください。初めての方のご相談については、無料で受け付けております。もちろん、平日にご相談をお受けすることもできますので、お気軽にお問い合わせください。電話0585-22-5660、担当横山または代表の国枝まで。
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初めて韓国行った感想
5月中旬に、隣国である韓国に行ってきましたので、その感想を記しておこうと思いました。 3日間という限られた中であり、韓国の中でもソウルとその周辺に行っただけあることなど行動範囲もさほど広くなかったのですので、それは違うんじゃないか?と言われる方もおられるでしょう。その点、ご了解いただきたいと思います。あくまで私個人の感想ですので、ご理解ください。 1.やはり近く、身近な韓国 中部国際空港を飛び立って約2時間も経たずにソウルの玄関口の国際空港、仁川国際空港に到着できる手軽さが良いと思います。中部国際空港にいた時間の方がかえって長いんじゃないかというくらいですね。飛行距離で言うと、中部国際空港から北海道の新千歳空港まで行く距離と同じほどの1000キロ未満です。距離だけでなく、韓国のアシアナ航空内の乗務員さんも、日本人と大きくは変わらない容姿(黄色人種)であり、機内でも日本語のアナウンスが聞かれて、仁川国際空港までは異国の感覚は薄い感じです。 2.街中は、ハングル文字の看板だらけ ハングル文字が分からない私にとっては、記号としか思えません。さっぱり何が書いてあるのか分かりません。ハングルだらけの看板を見て、ここは韓国、異国に来たのだと実感します。「英語」の表記すら少ないのです。少ない英語に目がいきます。まだ英語の方が身近だと感じてしまうのは、中学から大学2年まで8年の英語教育のためでしょうか。 3.ソウル市街地の車での交通事情の悪さ ソウル市内は、車で移動するのがとても不便に思えました。非常に多い一方通行、目的地に直線的に行けない道路網になっているかのようです。あまりにソウル市街地への集中がひどいためか、ホテル前や繁華街前でのバスの乗り降りは非常に余裕がない感じはしました。これは、日本の大都市、台湾でもあることでしょう。地下鉄がソウルにはあるようなので、地下鉄で移動するならスムーズな移動ができるのかもしれませんが、今回は乗車していません。同じ団体で、タクシーを使った人がおられましたが、非常に安かったと言っていました。タクシーについては、日本が高すぎるのではないかと思えます。 4.物価については、高いとは感じなかった 最近、海外旅行に行くと外食費がとても高いということを聞かされます。しかし、ソウル市内のコンビニ、セブンイレブンで売っている飲料は、日本とほぼ変わらない値段、100円以上200円以下でミネラルウオーターを売っていました。おにぎりも150円前後であったと思います。お菓子も、日本と同じ「オレオ、おっとっと」も売っていましたが、高い感じはしませんでした。日本でも人気のスターバックスのドリンク、これもさほど値段は変わらないと思いました。 5.日本の快適さとほぼ変わらない高速道路のサービスエリア トイレは、十分にきれいに掃除されており、トイレットペーパーは、備えられていました。手洗い場も清潔で、安心して使えるというイメージでした。おみやげ物もあるし、ファーストフードも売っているのですが、タコ焼きまでもありましたので、日本のサービスエリアと比べても何ら変わらないという感じでした。 6.高速道路の車線数の多さ 大都市間を結ぶメインの高速道路の車線数は、片側5車線。うち1車線は、乗合自動車専用というのは、すごい。おかげで、バスは混雑する一般路線を尻目にスムーズに動けるというシステム。日本だと一般道路にバス専用レーンというのはあるが、高速道路にはなかったと思います。ただ、バスの運転の荒さには、気分が悪くなってしまいました。急な車線変更を頻繁に行うのです。カーブをスピードを落とさずに通るのです。全般的に、せっかちな運転をする国民性が影響しているのかもしれません。あと路面状態は、日本よりも良くないこともあるかもしれません。 7.林立するマンション群 ソウル近郊の高速道路からは、数多のマンション群が所狭しと立ち並んでいるのが見られます。マンションは、さほど新しいものが多くなく建築後20年から40年ほどのものが多いのではないかと思われました。日本のマンションと違って、ベランダが付いていないのに目がいきました。東京都の場合だと、ある程度都心部から外れると、一戸建てが増えてくると思うのですが、ソウルですと、途切れることがなくマンションが立ち並ぶ地域が続くのです。これを見ると、ソウルは世界でも有数の人口密集地というのがわかると思いました。 ある程度長くなってきましたから、次のコラムに「国民性」「食事」「デジタル化」などは譲りたいと思います。
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大学生までに海外に行こう
5月中旬、コロナ禍以降初めての海外旅行に行きました。私の海外渡航経験など、さほど多くありません。今回で6度目です。その中で、一番近いのが、今回の韓国です。韓国は、地図上でも近く見えますが、実際、飛行機で行っても2時間程度なので、近くてすぐ行ける国であると実感できました。 隣国、近くとは言っても、海外なのです。公用語は、韓国語であり、韓国語しか通用しない人も多いのです。街中での表記は、「ハングル」だらけで、漢字表記などありません。ところが、宿泊したホテル客室内の表記は、韓国語と「英語」の表示がほとんどです。一部に、日本語が書いてあるのも、その室内にありましたが、日本語メニューがありません。 そんなときに、英語をじっくり読もうとできるかどうかではないでしょうか。私は、英語であれば、読む気になれば読みます。地球環境保護のためにとか題された文書、比較的易しい英語で記載されていたので、その意味は手に取るように分かりました。「地球環境保護のために、原則として連泊の場合はシーツの取替えを行ってません、もし必要であるならば、この紙を枕元に置いてください」「タオル等の消耗品の取替えは、原則的には行いませんが、タオルの交換を希望される場合は床にタオルを置いてください」「その他消耗品補充の希望がある場合は、フロントまでご連絡を」特段、英語の辞書を用いずに理解できたのです。 私は、英語が日常的に必要ない環境で生活しています。このため、英語を勉強したり、話したり、書いたりなどはしません。英語が聞き取れて、読むことができて生活が著しく良くなるということもありません。しかし、通訳なしで英語で話されていることが理解出来たらいいなあと思います。 実は、私は高校1年生の夏休みに、イギリスに語学研修に行ったことがあるのです。イギリスの一般家庭の中にホームステイさせていただきながらですので、何か意思表示するのに、片言の英語を使わざるをえません。せっかくのイギリスなので、いろんな観光地を巡りたい、本場ヨーロッパの音楽も聴きたいとなると、その情報を集めなければなりません。その情報は、当時は冊子でした。冊子を広げて、そこへのアクセス方法を調べてと、怖いものなしによく出かけたものだと思います。失敗もしましたが、良い経験でした。もちろん、その冊子、雑誌などは英語だらけです。それを読まなければ、たどり着きません。当時は、インターネットなど存在しなかったので、英語と完全に向き合わないといけない空間でした。 若いころに体験したことは、やはり後々大いに生かせると思います。英語を苦も無く読もうとできるのは、高校一年の時の、海外研修が生きているのだと思います。名古屋大学が、海外留学をおススメしてくるのは非常に理解できるところです。そう、インターネットで、世界が身近でも、やはり現地に行き、現地の人と話すことが大事で、その経験は人生に大いに生きてくると思いますから。妻も、若いころの何度も海外に行っているので、外国人に向かい合う度胸はあるなあと思います。
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「祭り」は、同窓会のようなもの!?
5月というと、私にとっては幼少期からずっと「いび祭り」なのです。 揖斐川町の商業の中心地である「揖斐地区」(揖斐小学校校区)の中心地域の祭りで、揖斐っ子の、こどもの日のお楽しみが、このいび祭りであったと言っても言い過ぎではないでしょう。すでに私が揖斐小学校を卒業してから40年以上の歳月が経ちましたが、この40年で、大きく商店街の様相も変わってしまいました。もともと、私は実家は、この揖斐地区の商店街ど真ん中にあり、間口が短く、奥行きに長い「ウナギの寝床」のような家でした。お隣の家とも距離がなく、くっついていて、隣の叫び声が、うちにも聞こえてくるような環境でした。 お隣には、同級生の女子Mさんが、住んでいて、一緒に登校したり、遊びもしたものでした。その、Mさんと40年ぶりに長く話すことができました。きっかけは、Mさんが、話しかけてくれたことでした。子育ても、ようやく終盤戦(うちは、末っ子大学生、Mさんは高校生)ということで、気持ちにも余裕が生まれたのでしょうね。一緒に小学校の頃の思い出を語り合いました。Mさんとは、45年前にいび祭りの子ども歌舞伎で、夫と妻の役だったのです。 私は、主役である赤穂浪士・潮田又之丞、Mさんは連れ添う女房のお浪。潮田は、眼病を患っており、夜になると目が見えなくなる。そんな夫の目をわが子の命を引き換えにしてでも治す妻の献身さを物語るものでした。全部で6人が、出演したのですが、いまだにその役と誰が演じたのかは覚えています。厳しい師匠だったなあというのが、Mさんとの共通認識で、私は、「こんな難しいこと、ようやらん」という心境で、数回泣きました。練習では、槍を右手から空中に放り投げて、左で受け止めるという動作を毎度失敗して、槍を床に転がしていたのですが、本番では、一度も落とさずに務められたのが誇りでした。歌舞伎冒頭のセリフについても、覚えているのです。まさに九九や「春はあけぼの」のように。完全に記憶しているのです。 Mさんとの会話、「5つの車山で上町の車山が一番かっこいいって、誇りに思っていたでしょ。車山のうえにある三日月があるから」「このあたりみんないろんな商店がいっぱいあって、賑やかやったんやよね」と。うんうん、と頷き懐かしみあうと、私もMさんも、目がウルウル。今は、昔在りし日をともに思い浮かべて、流す涙。小学校時代(昭和50年頃)へとまたタイムスリップしていけたら、どれほど癒されるだろうなあ。あの当時は、同じ町内で20人上の小学生がいて、月に1度、子供会というのをやっていたのですが、今だとこの町内は小学生は指の数ほどです。 現在、私の家は中心市街地から離れた場所。しかし、45年前の思い出は、永久に失われません。そんな思いに引き寄せられて、祭りを機会にいびの祭りにやってくる、そんな人たちも多いのではないでしょうか。祭りは、「同窓会」のようなもの、というのは誰かが言った言葉ですが、その通りであると思わされます。
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待ち望んだキャッシュレス乗車に一歩前進した養老鉄道
養老鉄道、地域の足となるローカル鉄道ですね。普段の朝早くは大勢の高校生が乗る鉄道です。私も、私の息子たちも、この電車の始発駅揖斐駅から大垣駅まで乗車して通学しました。高校生当時の車両は、すべて冷房などついておらず、ただ天井の扇風機が回る夏仕様であったと思います。この猛暑、酷暑が当たり前となった現代に扇風機だけならば、倒れる人も多く出ただろうなあと思います。幸い、現在となっては、冷暖房完備は当たり前の車内になりました。快適になったものだと思います。 ただ、自家用車へのシフトも著しく、「少子化」も影響して、乗車数はずっと減少してきたのではないでしょうか。沿線自治体の補助がなければ、存続は大変厳しいところでしょう。沿線自治体の取り組みとして、養老鉄道の利用促進を訴えたり、パークアンドライドのために駅前駐車場の整備をしてきました。鉄道会社側の取り組みは、東京から中古車両を導入したり、発射案内が、LED化されたり、待合室の快適さを向上させたりしていました。ところが、キャッシュレスが普及してきても、定期券購入はキャッシュレスでできるようになっていても、片道乗車券は、券売機で硬貨、紙幣を入れて購入しなければなりませんでした。これが、私にとっては面倒くさくて、養老鉄道に乗車するハードルを上げるものでした。 ところがようやく、キャッシュレスに対応した券売機に取り換えてくれたことを3月に知りました。財布をバッグより取り出して、硬貨を取り出すわずらわしさから解放され、スマホの交通系タッチ決済にも対応しました。しかも、片道乗車券のみならず、往復乗車券購入、回数券購入もできるように改善されていました。往復乗車券を買っていれば、帰りに大垣の券売機に立ち寄らずにすみますからね。利便性を格段に上げてくれたなあと感じました。 惜しまれるのが、乗車時の激しい縦揺れです。高校生の時には、椅子から飛び上がるような揺れはなかったように思うのですが。経年劣化でしょうかね。揖斐駅から大垣駅まで約25分、これは我慢できない時間ではないでしょう。駅から近い商店、飲食店が目的地ならば、自家用車で行くよりも私は気楽だと思いますね。とりわけ、朝夕の交通渋滞の中で、岐阜、名古屋方面に通勤するのはストレスですから。健常者であれば、一宮から名古屋の間の混雑以外は、「耐えがたい辛さ」とは思わないのでは。 そして、何より自家用車でなく、公共交通で移動する最大のメリットは、運動不足を解消できることだと思います。自家用車で通勤者がほとんどの当事務所は、運動不足になるメンバーが多数います。私も、時間に追われる毎日を送る結果、車で動きすぎて、運土不足になったのが、「脳血管疾患」となった一つの要因だったと思います。「焦ることなく」公共交通を使う、自分の足を使って歩くという習慣をつけようと思います。 郊外の広い道路、広い駐車場は別に苦にならないのですが、都会の駐車場を探しつつ運転することの危険性を思うと、気持ちに余裕をもって、公共交通を使うというのが、一番健康に良いことでしょう。私にとって、キャッシュレス拡大は、公共交通を利用するインセンティブとなります。「キャッシュレス化」をすすめていただいた養老鉄道にまずは、感謝ですね。
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38年前の大学入学時代を思い出すと
現在、私は56歳です。大学には、高校を卒業してすぐに入学しましたので、38年前に大学に入学したことになります。もうずいぶん遠くなってきた昭和の末期です。昭和62年、西暦で言えば1987年なのですね。今から、1987年を観てみれば、時代の転換期ともいえる時代であったと思います。大きな話題とすると国鉄が分割民営化されたのが、1987年のことでした。JRという新しい民間鉄道会社が発足しました。岐阜県内の国鉄だとJR東海に、首都圏ないだとJR東日本へと変化しました。国鉄時代は、たびたび値上げがあり、赤字だらけと批判されたものが、JRとなってからは、運賃の値上げがほとんどなくなりました。値上げは、消費税が導入された時くらいだったように思います。そのことを考えるならば、民営化は成功だったと言えるのですが、「赤字路線」を切り捨てて第三セクター方式に移行する路線が数多く出ました。どうしても、営利企業となれば、不採算の部門(路線)は切り捨てることになるのはやむをえないことでしょう。そのローカル路線の維持について、地方自治体の予算が割かれていっているわけなのでしょう。あと、国が作ってきたものを民間に切り売りしていくという手法はさて、公平なのかという疑問はあります。民営化の先例である日本電電公社、のちの郵政民営化も同じだと思えます。人口が多い地域については、手厚くなるが、人口が少ないところでは、サービスが手薄になっていく傾向にあると思います。「地方を元気にする」政策とは、逆を行くのが、公営事業の民営化という側面もあるようにも思います。いかがでしょうか。大多数の幸福を追求するという理念のもとに、公営企業が民営化されていると信じたいと思います。 1987年といいますと、携帯電話はほとんど普及していませんでした。「ポケットベル」というものはあって、呼び出しをして、その折り返しを待つというものがありましたが、すぐにコミュニケーションをとれないもどかしさを感じたものです。さらに、「ポケットベル」を持つのは限られた人だったと思います。携帯電話は、自動車についた電話機や、重い機器を肩から下げて通話するものがありましたが、いずれも学生が持つものではありませんでした。 親元離れて、一人暮らしする学生に不可欠だったのは、加入電話であり、「電話加入権」でした。電話加入権は、当時72800円で売っていたと思います。一度に72800円は、かなりの出費ですよね。さらには、通話料です。当時は、遠距離通話が割高であったので、東京から岐阜まで気軽に電話するのも躊躇しました。公衆電話でテレフォンカードの1000円分があっという間に「度数」がなくなっていきました。そこで、現状報告には、よく「手紙」を書いたものです。この手紙を母は、大事に持っていてくれるのですが、自分では「恥ずかしくて」読む気がしません。きちんと丁寧な字でびっしりと書いた手紙です。しかし、この手紙の内容は、思い出すことはできません。 今の学生は、ノートパソコンは必須アイテムなのですが、当時「パソコン」はまだ登場していませんでした。コンピュータは、存在していたものの、身近ではなく使いにくいものであったのを記憶しています。当然、画面はカラーではなく、奥行きの長いブラウン管でした。ようやく出始めたのが「日本語ワープロ」でした。しかし、表示される範囲も狭く、機能も乏しかったと思います。ただ、手書きよりははるかに楽であった記憶があります。大学1年の時は、学級があって、担任の先生もいたのですが、先生が作成された名簿は、「手書き」でした。「名簿」の存在すら、後に作られた「個人情報保護法」により、珍しいことですよね。さらには、「手書き」ということで、今思うと「昭和感」が非常に強いと思います。 そう、現代にはある「インターネット」も当時ありませんでした。これが、一番大きな違いなのではないでしょうか。これは、ソ連崩壊、冷戦構造の崩壊を原因とするものということを言われていますが、私の学生時代と今の違いで一番大きな違いは、「インターネット」ではないかと思います。通信技術、情報技術の著しい発展によって、私たちの生活は、大きな変化を遂げ、格段に便利になりました。その恩恵には、感謝するべきだと思いながら、この文章を書いております。
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大学入学式にて感じたこと
4月5日土曜日、三男の大学入学の晴れ姿を見るために、名古屋大学に出かけてきました。 残念ながら、入学式が行われる会場には、収容人員の関係でしょうか親は入らせていただけませんでしたので、学部の講義室で中継映像を観ることで、入学式の雰囲気を味わいました。式典が始まる前によくあるのは、「記念演奏」です。この日は、ワーグナー作曲「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第一幕への前奏曲でした。クラシックファンにとっては、耳なじみの曲ですね。CMでも使われた曲であるようです。学内のオーケストラの演奏、演奏者が同じ大学の学生というのが、やはり愛校心を育むのによいと思いました。演奏の巧拙については、アマチュアレベルで言っても仕方ないでしょう。 私も、このように入学式の際に男声合唱団の一員として演奏させていただいたこともあるので、思い出深くもありました。私の出身校である中央大学ですと、入学式の記念演奏は、オーケストラとともに男声合唱団がさせていただいていました。中央大学が、英吉利法律学校が前身だということで、イギリスの作曲家エルガーの代表作である「威風堂々」を演奏しました。新入生の時は、これを聴いて、男声合唱に入ろうとは思っていなかったのですが、体験入部に行った時の楽しさと男声合唱のハーモニーの妙に魅了されてしまって、男声合唱部(グリークラブ)に入部することにしたのです。それ以降の3年間恒例の行事のように、「威風堂々」をともに歌ってきました。それも良い思い出ですが、早いもので38年経ってしまいました。最近、中央大学の入学式の模様をYouTubeで見たのですが、昨年もなお「威風堂々」が記念演奏されていました。ただ、そこに「私の青春の1ページであった」グリークラブはありませんでした。続く、続けることの難しさを感じさせられます。グリークラブは、10数年前から、部員の極端な減少に悩み、とうとうコロナに最後のトドメをさされたという感じで、昨年廃部が決定してしまいました。 記念演奏のあと、総長が大学の歴史、大学生として学んでほしいこと、やってほしいことなどご教示いただけました。自身の大学生活を振り返り、充実したいろんなことができた中身の濃い大学生時代だったなあと感じました。大学時代の友人からよく学んだり、グリークラブに入っていたことから、様々な学び、失敗があってそこから学んできたなあというのも思い起こしました。ご来賓には、ノーベル賞受賞された野依良治さんからお祝いの言葉をいただけるなど、名古屋大学の偉大な先人たちに圧倒される思いもしました。新入生として聴くのと、親になってから大学を出てから聴く姿勢では全く違うなあと感じつつ、じっくり拝聴しました。 入学式が終了したのち、「入学式」の看板前で長蛇の列ができていました。新入生に交じって、部活サークルの勧誘をする先輩たちの姿に、これは変わっていないなあと感じさせられました。ところが、私の大学入学式に親が同伴している人はいなかったように思うのですが、今時はかなりの割合でいるようです。多くは、親と新入生で記念撮影をしていました。本当に、式が終わって開放感があるのか、みんな(親も先輩学生たちも)本当に良い笑顔です。この大学に来られてよかったという雰囲気が充満していました。 「勇気ある知識人」になるためには、海外に目を向けてということも多く含まれるのでしょうか。「海外留学」を何度も勧めていました。コロナも明けて、海外留学がより盛んになるということです。確かに、若い思考が柔軟なうちから、海外に出て、「日本以外」の文化に慣れておくということも「国際人」になるには必要なことだろうなあと思う反面、金銭的なことが頭をよぎります。 今日の株式市場は、また一段と株安が進んでいます。これは、きっと「トランプ関税」の影響だろうなと思うのです。より世界の経済が日本に与える影響は大きくなる今、「世界で起きている事」に関心をもつことの重要性は増すばかりでしょう。
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経営者としての務めとは何かを考えたい
年度替わりの4月は、新入社員が、新入生が希望と夢を胸に新たなステージに足を踏みいれる季節です。この季節の「少し肌寒く」「ピリッとした緊張感」の中、桜の咲く雰囲気が私は好きです。皆様の中で、ご進学、ご就職でお子様が巣立たれた方も多くいらっしゃると思います。新しいステージで、成長されること、ご活躍されることを祈ります。 気持ちを入れ替える、初心に帰る機会ともなるのが、新年でもあり、新年度もあると思います。事業を始めた時の初心を思い出してみていただきたいです。最近、昔の意気込みはどこにいったのか?入社当初のさあやるぞといった意気込み、新しいことを学ぶ意欲にあふれた新入生当時の思いをこの機会に思い起こされてはいかがでしょうか。それとも、「起業」当初の意欲にあふれたご自身、親から引き継いで代表になり気持ちのたかぶった当時の自分を思い起こされてはいかがでしょうか。 さて、企業の代表者である皆さんは、自社をどのような会社にしたいという思いはあるのではないでしょうか。食べていければそれでいいと思っている代表者は、いないと信じています。どなたも、自社が『社会的に認められて、儲かる会社でありたい』と思っていると信じています。例を挙げるならば、「会社の利益を1000万円、代表者自身の役員給料も年1000万円には最低限したいな」というものです。ところが現状、「利益は出ていない、役員給料は、600万円しかとれていない」としましょう。そのような会社は、『社会的に認められていない儲からない会社』と言って過言ではないと思います。このギャップを埋めるためには何をしなければいけないですか? その「ギャップ解消方法を考え、実行に向けて組織を動かす」のが管理者の仕事であり、経営者の仕事であると思います。中小企業の場合は、現場の仕事を代表者が自らやる必要もあるかもしれませんが、それに没頭しすぎてはいけません。代表者は、日々の業務に追われない環境に自らを置くようにしていくべきです。大所高所より会社を見て、方向性を決めるのが経営者です。現場仕事に没頭しすぎていては、本来経営者が行うべき仕事ができないのではないかと思います。今は、現場仕事を数多くやっているが、それを部下に委ねていくようにしないと組織的な仕事ができません。企業の成長発展がもたらされません。 ですから、会社を大きく強い会社にしていくには、次の点を考えるべきです。 代表は、代表しかできないか代表がやるべき仕事のみをやりましょう。 代表しかできない仕事ばかりの場合は、仕事ができる部下を作りましょう。 仕事ができる部下に、代表がやっている仕事を任せましょう。 代表は、常に会社の経営成績や資金繰りを把握しておきましょう。 代表は、この会社で、何をなし遂げるかという「目的」、「ビジョン」を作り、公表しましょう。