5月というと、私にとっては幼少期からずっと「いび祭り」なのです。
揖斐川町の商業の中心地である「揖斐地区」(揖斐小学校校区)の中心地域の祭りで、揖斐っ子の、こどもの日のお楽しみが、このいび祭りであったと言っても言い過ぎではないでしょう。すでに私が揖斐小学校を卒業してから40年以上の歳月が経ちましたが、この40年で、大きく商店街の様相も変わってしまいました。もともと、私は実家は、この揖斐地区の商店街ど真ん中にあり、間口が短く、奥行きに長い「ウナギの寝床」のような家でした。お隣の家とも距離がなく、くっついていて、隣の叫び声が、うちにも聞こえてくるような環境でした。
お隣には、同級生の女子Mさんが、住んでいて、一緒に登校したり、遊びもしたものでした。その、Mさんと40年ぶりに長く話すことができました。きっかけは、Mさんが、話しかけてくれたことでした。子育ても、ようやく終盤戦(うちは、末っ子大学生、Mさんは高校生)ということで、気持ちにも余裕が生まれたのでしょうね。一緒に小学校の頃の思い出を語り合いました。Mさんとは、45年前にいび祭りの子ども歌舞伎で、夫と妻の役だったのです。
私は、主役である赤穂浪士・潮田又之丞、Mさんは連れ添う女房のお浪。潮田は、眼病を患っており、夜になると目が見えなくなる。そんな夫の目をわが子の命を引き換えにしてでも治す妻の献身さを物語るものでした。全部で6人が、出演したのですが、いまだにその役と誰が演じたのかは覚えています。厳しい師匠だったなあというのが、Mさんとの共通認識で、私は、「こんな難しいこと、ようやらん」という心境で、数回泣きました。練習では、槍を右手から空中に放り投げて、左で受け止めるという動作を毎度失敗して、槍を床に転がしていたのですが、本番では、一度も落とさずに務められたのが誇りでした。歌舞伎冒頭のセリフについても、覚えているのです。まさに九九や「春はあけぼの」のように。完全に記憶しているのです。
Mさんとの会話、「5つの車山で上町の車山が一番かっこいいって、誇りに思っていたでしょ。車山のうえにある三日月があるから」「このあたりみんないろんな商店がいっぱいあって、賑やかやったんやよね」と。うんうん、と頷き懐かしみあうと、私もMさんも、目がウルウル。今は、昔在りし日をともに思い浮かべて、流す涙。小学校時代(昭和50年頃)へとまたタイムスリップしていけたら、どれほど癒されるだろうなあ。あの当時は、同じ町内で20人上の小学生がいて、月に1度、子供会というのをやっていたのですが、今だとこの町内は小学生は指の数ほどです。
現在、私の家は中心市街地から離れた場所。しかし、45年前の思い出は、永久に失われません。そんな思いに引き寄せられて、祭りを機会にいびの祭りにやってくる、そんな人たちも多いのではないでしょうか。祭りは、「同窓会」のようなもの、というのは誰かが言った言葉ですが、その通りであると思わされます。