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イチローさんの野球殿堂入りを称える

王貞治さんをして、「5年待たなくてもよかったんじゃないか?」と言わしめたイチローさんの野球殿堂入りでした。

現役引退から5年経たないと、選考対象にならないという野球殿堂だからですが、本当にイチローさんは王さん同様に特別な存在であったからであると思います。私とイチロー氏とは、5学年違いであり、私が大学卒業して1年が経ってからプロ入りしました。その翌年にジュニアオールスターで、ホームランを打ってから、イチロー選手に注目するようになり、新聞などでその成績をチェックするようになりました。1年目、2年目は鈴木一朗という本名で選手登録していて、オリックス(ブルーウエーブ)の鈴木という名前を見つけ出していましたが、なかなかレギュラーを取るまでにはいかなかったのですよね。3年目に入ると、監督が仰木監督になり、鈴木一朗を何とか売り出そうということで、「イチロー」という登録名になったのですよね。登録名が市民権を得られるようになったのも、「イチロー」の活躍があったからでしょう。仰木監督1年目にイチローは、レギュラーに抜擢されて、常時試合に出るようになったのですね。オープン戦で打ちまくり、開幕もレギュラーを勝ち取って、出足こそさほど良くなかったのですが、当時の常勝西武ライオンズ戦でも20歳の若武者は、当時ベテラン内野手の福良さんの前で、敬遠されていましたので、これは大した選手と評価されているからだろうと思わされました。5月からは、ハイペースでヒットを重ねていって、6月には一時打率4割という数字を見せてくれました。彼の1年目の成績210安打は、初の200安打でしたし、打率も3割8分5厘というのは、2位に大差をつけていました。

さすがに2年目以降は、200安打を記録することはできなかったのですが、日本のプロ野球では、7年連続の首位打者という、これも前人未到の記録を打ち立てていきました。その間、故障で休むことがほとんどありませんでした。日本のプロ野球在籍期間が9年ということで、あまり長くないことが、野球殿堂の投票で影響したのか、満票にはならなかったのが残念でしたが、その記録は、燦然と輝けるものがあると思います。

私は、大学卒業後しばらく首都圏に住んでいましたので、イチローの出場試合を観に何度も、西武球場、東京ドーム、千葉マリンに足を運びました。パリーグは、当時あまりに人気なく、空席も多い中ゆったりとじっくりと観戦できたのがよかったですね。イチロー選手は、打ってはとんでもないボールを打ち返してヒットにしてしまいます。まるで魔術師のようですした。その足は軽やかに塁間をかけぬけていきました。そして、強肩での外野からの矢のような送球、軽やかに打球を追う姿は、スピード感にあふれていて、魅了されました。イチローは、プロ選手の中でひときわ目立つ存在であったように思います。そのイチローに魅せられてオリックス戦を3年間で50試合は観に行ったのではないでしょうか。

米球界に行き、そしてWBCで、その名声は確固たるものとなった今では、米球界でも「野球殿堂」入りされましたが、私の思い出としては、オリックス時代のリーグ優勝をした時の若きイチローが一番思い出に残っています。もうすでに30年も前のことというのが信じられません。そうですね、阪神淡路大震災の時の「がんばろう神戸」を掲げて戦った「オリックスブルーウエーブ」「イチロー」も復興の象徴でした。そのオリックスも、すっかりバファローズが浸透し、本拠地は京セラドーム大阪になっている。なつかしき思い出になりました。イチロー選手とほぼ同じ世代で良かったと思っています。イチローさん、おめでとう、そしてありがとう。